踏み入れてしまった、東京というブラックホール
慶應出身だという伸宏は生粋の東京男子だった。
「『アッピア』でいいかな?それか家から近いし『ばさら』とか?」
どちらも知らなかった。
「そっか、上京したばかりだもんね。東京は美味しいお店で溢れてるから、これから色々と連れて行ってあげるよ」
「すみません、何も知らなくて...」
恥ずかしかった。しかし伸宏はそんなこと気にもしていない様子で、 『アッピア』を予約してくれた。ワゴンで運ばれてくる料理に感動した。
「幼稚舎がこのお店のすぐ近くにあって、天現寺交差点を通るたびに色々と思い出すんだよね。もう卒業して何十年も経つのにね」
そう言いながら笑う伸宏の笑顔を見ながら、こんな所で生まれ育った伸宏を羨ましく思った。地元に置いてきた慎吾のことは、もう忘れていた。
「美穂ちゃんって、東京に染まってない感じがいいよね」
「それ、褒め言葉じゃないですよ。笑」
話を聞いているうちに、伸宏のような“みんなが羨む人”の彼女になったら、自分も東京の女になれる気がしてきた。
伸宏のような人と付き合えば、東京ヒエラルキーの中で、自分も上に行ける。
永遠に追いつけない東京女子・マリエ。いつかマリエのようになりたくて、東京育ちと名乗りたくて、慣れないワインの力を借りて、その晩伸宏の胸に飛び込んだ。
後に、伸宏がわざわざ“ラトゥール”と言った理由がよく分かった。まるでホテルのようなエントランス。エレベーターに乗ってきたのは芸能人。大学まで過ごした場所とは、全てが桁違いだった。
—肌で感じる東京—
伸宏の家の窓からは、赤く燃える、東京タワーが見えた。
急に色褪せて見えた、田舎に置いてきた彼氏
机の上で携帯電話が鳴っている。慎吾からだった。
「そっか、今日は日曜日か...」
日曜日の20時は、慎吾と電話をする時間だった。
「慎吾、ごめん...」
鳴り続ける携帯電話の画面を見つめながら、着信音が途切れるまで画面を見つめ続ける。
「慎吾、本当にごめん」
ゴロンと横になった瞬間、狭い家の片隅に両親が送ってくれた信州産の野菜が入った段ボール箱が目に入る。両親と慎吾の顔が思い浮かび、心が痛む。結局、あの日以来伸宏には会っていない。小さな罪悪感に苛まされ、会えなかった。
もう、二度とこんなことはしない。
そう誓ったはずだったのに。
◆
東京にいる限り、今日という日が一番ピュアだ。明日になれば、もっと不純になっていく。日々イノセントさが失われていくことに、まだ気がついていなかった。
次週10月19日水曜日更新予定
上京を決意した慎吾。東京に染まりゆく美穂は自分らしさを探して東京を彷徨う...
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