金曜日
On Friday
PM6:00
一度ホテルに戻り、着替えた後は、早速F1のテスト走行に真美を連れて行く。シンガポールの陽は長く、まだまだ明るい。
まだ決戦の前々日だが、会場は既に殺気だっており、独特の張り詰めた緊張感があった。
F1でしか聞けないエンジン音を聞くたびに、心が躍る。レーサー達の真剣な眼差しの先にあるゴールを自分も一緒に見ているような気分だ。
「本当、来てる人みんな凄いよね〜」
真美が隣で呑気な声を出している。真美の関心は、レースの勝敗よりも豪華な雰囲気にあるらしく、来ているお客さんをキョロキョロと眺めていた。
「ねぇ、あれ有名な人じゃない?」
帽子を深く被りながらテスト走行を見ていた人を指差しながら真美が声を上げる。
視線の先には若干32歳ながら、アプリで大成功を収めた小野寺慎吾がいた。勿論知っている。IT業界の新鋭と呼ばれており、現在シンガポールに移住したと聞いていたが、ここで会うとは世間は狭い。
「あぁ、あれアプリ開発で有名な慎吾っていう人だよ」
名前を言った後でふと気がつく。べつに真美にわざわざ名前を言う必要はなかったなと。
まだ慎吾が起業したばかりで資金繰りに困っていた5年前、慎吾は修二に助けを求めてきた。修二は慎吾の熱意と可能性を感じ、微力ながら1,000万円ほど資金提供と、いくつかの技術支援もした。「このご恩は一生かけて返します!」という言葉を信じて。
しかし、修二の知り合いのツテを使って成功した途端にぷつりと音信不通になった。後に資金は返済されたが、ありがとうの言葉もなかった。修二はそのことを気にはしていないが、自分から挨拶する気にもならなかった。
気がつけば、慎吾もこちらを見ていた。修二と言うより、隣の真美を見ていた。
On Friday
PM 11:00
コンサートで新たに見つめ直す二人の関係!?
「修二、見て!カイリー・ミノーグが歌ってるよ!」
真美が行きたいと行っていたエリア全体がテーマパークのようになっているクラーク・キーへ行き、ご飯を食べた後はサーキットパーク内の巨大コンサートにやって来た。
F1という目的のために集っている人達は通常のコンサートよりどこか一体感があり、会場はとにかく大盛り上がりだ。
「普段聞いている大物アーティストの生歌がこんな近くで聞けるなんて最高!」
普通だとチケットも入手困難の超大物アーティストが毎日登場する。
修二も思わず体が動く。
「修二がテンション上がってるの、何か面白いね(笑)」
「何だよそれ。俺だってテンション上がれば踊るときもあるよ」
人混みの中、何となく手を繋ぐ。じつは最近、真美に結婚を迫られ、 少しぎこちない時間が続いていた。5 年前、修二は元CAと離婚しており、心の中では結婚よりいまの関係の方が良いと思っていた。しかし、真美は年齢的にも精神的にも結婚したいらしい。
真美の気持ちは痛いほど分かるのだが、 自分は結婚に向いていないと思っている。結婚した途端に妻の存在を当然のように感じて、喜ばせる努力がピタリとやんでしまった。だから、なかなか決心がつかない。真美の中でも何か気づいたのか、結婚の話は何となくタブーな会話になっていたのだ。
気がつけば、こんな感じで人混みの中にふたりで紛れるのも久しぶりだった。大歓声と共に急に愛おしくなり、真美の手をぎゅっと握ると嬉しそうな笑顔が返ってきた。