柊が村上春樹好きだと知ったのは、そんな関係が1年以上続いたときだった。
その日は桃子が同僚の結婚式で渋谷に来ており、珍しく渋谷で会うことになった。
「お腹空いてないよね? バーにしようか」
と彼が連れて行ってくれた『八月の鯨』はセンター街の一角のゴミゴミしたビルにあって、普段柊と行く店と比べると雰囲気も平凡だった。けれど、カウンターに腰を下ろし、柊に「どうする?」とさりげなく差し出されたメニュー表を見て、桃子は胸が高鳴った。
そこには「サイコ」「ティファニーで朝食を」「ショーシャンクの空に」等映画のタイトルが連なっていたからだ。映画をイメージしたカクテルが売りで、映画の題名を言えばメニューにないカクテルも作ってくれるという。
すごい、こういうの大好き、と桃子が興奮して柊の顔を覗き込むと、柊は「そう?」といつもの調子でこともなげに言って、メニューを見もせずに小難しい名前のウィスキーをオーダーした。
柊「ノルウェイの森の良いところってなんだと思う?」桃子の出した「正解」とは
「ノルウェイの森、ありますか。」
桃子がバーテンダーに告げると、柊は子供のように目を輝かせて桃子を見た。
「村上春樹が好き?」
「うん。ノルウェイの森は、とくに。」
ついでに村上春樹が好きな男も好き、とは言わないでおいた。
「だからか。」
「え?」
「初めて会ったとき、また会いたいと思った。その時は何故だかはわからなかったけど、後になって理由が分かった。君の口から出る言葉が気持ち良かったんだ。好きな本が同じだと、好きな言葉も一緒なのかもしれない。そう思わないか?」
彼は涼し気な音をたててオン・ザ・ロックのグラスを置くと、今まで見たことのない心からうれしそうな表情で桃子を見つめた。
可愛い、美人だ、スタイルが良い……これまで人並みに言われてきたけれど、そんな表層的な褒め言葉よりも、桃子にとっては嬉しかった。柊が自分の気持ちを話してくれるのも珍しく、距離がぐっと縮まった気がした。
しばらく黙った後、柊が唐突に口を開いた。
「ねえ、一つ質問してもいいかい?」
「もちろん。」
「ノルウェイの森の良いところってなんだと思う?」
「……くだらないところ。意味がないところ。」
しばらく考えてから桃子が答えると、柊は「正解。」と満足そうにささやいて桃子の肩を抱き寄せた。
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