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日比谷線の女 Vol.9

日比谷線の女:人形町に住むバツイチ商社マンの、こじれた恋愛観に翻弄される…?!

後日、広尾の『アンビグラム』へ行き、それから月に2〜3回会うようになった。気が楽だったのは、彼は一切恋愛や結婚願望を持っていなかったことだ。一度目の結婚で自分は長期的な恋愛や結婚に向いていないと痛感したそうだ。

だからたくさんの女性とデートをするが、特定の誰かと付き合うこともしないと言い切る彼は、逆に信頼できる気がした。

「50過ぎて、老後のことが心配になったら考えようと思ってるよ」と悪びれることなく言う彼に

—それって介護要員ってこと?—

と心の中で軽く毒づいた。だが、祐介の言っていることは、若さと美貌を武器に散々美味しい思いをして、人生の旨味を味わいつくした女が、30歳を目前に婚活へシフトすることとあまり変わらないのかもしれないと、思い直すことにした。

商社マンという肩書きがあれば、何歳になっても結婚したいと思えばすぐに結婚できるのだろう。恋愛カーストの最上位に位置すると言っても過言ではない彼らは、まさに結婚したい時が適齢期だ。

特に、祐介のように離婚を経験している者は40歳を過ぎても一人でいることにあまり怪しまれないで済む。

離婚理由は、彼の多忙すぎる生活に、奥さんがついて行けなくなったからだと言うが、本当の所は彼の浮気ではないかと香織は勘ぐっていた。


バツイチとなった彼が、新生活の場に選んだのは人形町。国内外への出張が多い彼にとって、羽田へのアクセスの良さが重要だったそうだ。水天宮まで歩き、T-CATを使えば、バスに乗っているだけで約25分後には羽田に到着。部屋を出てから40分後には羽田でコーヒーを飲むことができるんだよと得意気にしている姿は、子どもみたいで可愛かった。

東京駅も、タクシーで1,000円かからない距離だから、疲れた時は電車のある時間でも、タクシーで帰っちゃうんだよねと、また眉毛を八の字にして笑うのだった。

人形町に住み始めて5年以上が経つけど、この街の歴史から見たらまだまだ新参者だよとも言っていた。ドラマ「新参者」が放送されて以来、これまでに何十回も言っているのだろうと思うと、さすがにその姿を可愛いとは思えなかった。


老舗が多く並ぶ人形町には、幅広い年代の人が沢山訪れ、甘酒横丁や明治座、水天宮付近は、いつも人で賑わっていた。

親子丼を考案したという『玉ひで』の前には、ランチの時間帯にはいつも行列ができており、結局食べずじまいだった。

昔ながらの洋食屋『小春軒』のカツ丼は、目玉焼きやジャガイモがゴロゴロのったそのビジュアルにびっくりしながらも、美味しさに感動した。

甘酒横丁からすぐの場所にある『人形町 今半 本店』も結局行かなかったが、今半が運営している隣の惣菜屋ですき焼きコロッケを買って、食べながら浜町公園まで歩いたのは、いい思い出だ。

すき焼きといえば『日山』で食べたすき焼きがあまりにも美味しく、父の日に合わせて実家へ1万円分のすき焼きセットを送ったりもした。一枚一枚丁寧に包まれた薄いお肉を見て両親は、「こんな高級そうなものを」と心配しながらも喜んでくれていたようだ。

他にも江戸前鮨の『喜寿司』、極上の肉づくしの和牛懐石料理、ロイヤルパークホテルの20階にある鉄板焼き『すみだ』にも連れて行ってもらった。甘いものでは『柳家』のたい焼き、『清寿軒』のドラ焼き、『重盛永信堂』の人形焼きなど、長きにわたってこの場所で愛されている銘菓を堪能したものだ。

そんな名店が揃う中で彼が一番好きなのは、甘酒横丁から浜町緑道沿いに歩くと、赤い外観が目をひく『BROZER’S』のハンバーガーだと言っていた。

旅行と食べることが好きな彼とは、まるで昔からの友人のように話が弾んだ。

毎月2〜3回ある戌の日は、水天宮から人形町あたりは安産祈願に訪れる妊婦たちで溢れていた。

何も知らない頃に彼と一緒にお参りに行ってみると、若い夫婦やファミリーに囲まれてしまい、彼と一緒に来たことを後悔した。ただ、いつか夫となる男性と一緒にお参りに来ている自分の姿を想像して、しっかり願掛けして帰った。

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日比谷線の女

過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。

そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。

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