東京ネイティブ Vol.1

東京ネイティブ物語:渋谷があるから僕がいる 〜俳優・前川泰之の場合〜

田舎のネズミは、「東京に生まれていたら、もっと華やかな人生になったはずだ」とボヤく。街のネズミは、「こんなゴミゴミした所じゃなくて、大自然の中でのんびり暮らしたかった」と愚痴る。

東京に生まれることは、いいことなのか、悪いことなのか。東京ネイティブたちが、生まれ育った東京を振り返る。

渋谷・ちとせ会館は最低だった自分の象徴

新歓コンパでの失態や、飲み会での撃沈——。

20歳代を東京で過ごした方なら、ちとせ会館という名前に覚えがあるはずだ。渋谷センター街を抜けた先にあるこのビルの前は、いまでも週末の夜はある種の修羅場と化す。

笑う人、叫ぶ人、泣く人、吐く人、吐く人を泣きながら介抱する人……。

最近は渋谷肉横丁で知られるこのビルの前を通り過ぎる瞬間、俳優の前川泰之さんの表情が少しだけ曇った。

「ここは、ダメだった頃の自分を象徴する場所なんですよ。高校を卒業して青学に入ったのはいいけれど、やりたいこともなくて、テニスサークルで酒ばかり飲んでいた頃を思い出すんです」

けれども渋谷は苦い思い出の街であると同時に、モデルとしても俳優としても成功した現在の前川泰之が生まれるきっかけを作った街でもある。

東京生まれの東京育ち、“TOKYOネイティブ”が自分にとっての東京を振り返るこの連載、記念すべき第1回目は、前川泰之さんにご登場いただく。

前川さんにとって、東京に生まれてよかったこととよくなかったことは、それぞれ何なのか?

「もともと生まれは足立区なんです。東京といっても下町で、虫捕りやザリガニ釣り、メンコやベーゴマといった昭和の子どもらしい遊びを目一杯やってましたよ」

そのまま近場の都立高校に進学する道もあったけれど、前川さんはその道は選ばなかった。幼なじみのお兄さんが進んだ明治学院高校の話を聞いて、白金高輪にあるこの学校に進むことを決めたのだ。

「足立区も好きだったんですけれど、もっと自分に合っている場所があるような気がしたんです」

明治学院高校では部活のサッカーに没頭、目黒から五反田を経由して白金高輪に戻るランニングコースで汗を流した。いまでも「ものすごく充実していた」と語る高校時代の思い出の場所は、2カ所ある。広尾と渋谷だ。

勉強は広尾の図書館、デートは有栖川公園

「そうそう、この図書館、久しぶりに来ましたよ。うわぁ、懐かしい。試験期間は部活がないので、午前中にテストが終わると広尾に来るんです。シェーキーズで食べ放題のピザを食べて、都立の中央図書館で夕方まで勉強をしてましたね」

広尾の図書館で試験勉強とは、なんてお洒落な高校生! けれども前川さんにはそんな意識はまったくなかったという。あくまで学校帰りに近くの図書館に通っただけなのだ。

「うちの高校にはちょっとお洒落で目立つヤツもいて、当時流行っていたチーマーに図書館で目を付けられたりもしましたね。でもうちの生徒はみんな良い子で弱っちいので、ケンカにはならなかった(笑)。そうそう、図書館の隣の有栖川公園でデートしたこともありました。ホント、懐かしいなぁ」

そして試験が終わってから繰り出すのは渋谷だった。

「当時、アメカジとか渋カジ、キレカジとかモデカジとか、いろんな“カジ”が流行っていて、金持ちの友だちはラルフローレンのチェックのシャツとかブレザーとか着てたんです。でも僕は買えないので古着屋に行って似てるやつを探しました。友だちのシャツはラルフローレンの馬のマークなのに、俺のだけ鳥のマークだった!(爆笑)」

前川さんがファッション誌を読むようになったのはこの頃から。トレンドの最先端を渋谷で間近に見ることができたり、雑誌に載っているショップにすぐに行ける環境は、モデルという職業を選んだことに少なからず影響を与えたはずだ。

広尾の図書館でしっかり勉強をした甲斐があり、前川さんは推薦で青山学院大学に進学する。

「当時は明治学院高校から7割は明治学院大学に進んでいたんです。でも友だちとそのまま同じ大学に行っても広がらないな、と思って青学に行こうと決めました」

このあたりは、地元の足立区を離れて明治学院高校を選んだ経緯と似ている。刺激を求めて、新しい環境へ飛び出すのが前川泰之という男の生き方だ。
しかし青山学院に進むと、冒頭に記したような暗黒時代が訪れる。そして、この暗黒時代から逃れるきっかけが生まれたのも、やはり渋谷という街だった。

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