彼の自宅は築地駅から徒歩6分。聖路加ガーデンに程近く、緑が多くて道幅は広いわりに交通量が少なくゆったりと静かな場所にあった。
最上階である11階の角部屋で1LDKの約50㎡。リビングの大きな窓からは隅田川の奥にリバーシティ21のタワマンが煌々と光る夜景が楽しめるのだとよく言っていた。だが、泥酔していた香織は結局その夜景を見ることはなかった。
翌朝、柔軟剤がわずかに香る清潔なベッドで目を覚ますと、健一郎はリビングの大きなソファでベージュの毛布をかぶって寝ていた。
しばらくして目覚めた健一郎に「コーヒーでも買いに行かない?」と誘われ、聖路加国際病院の『スターバックスコーヒー』でソイラテを買い、隅田川テラスで半分ほど飲むと、マンションへ戻ってすぐにおいとました。
健一郎と会うのはいつも夜だったから、明るい時間に一緒にいることがなんだか恥ずかしいのと、迷惑をかけたという申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだ。
この日を境に、彼との間で何かが始まることも、終わることもなく、一回り以上年の離れた飲み友達という関係は緩やかに続いていた。
仲の良い男女が「30歳になってもお互い一人だったら結婚しよう」という本気とも冗談ともつかぬ約束を交わすことがある。
香織もそんなセリフを言ってみたくて「10年後もお互い一人だったら結婚しようよ」と言ったことがある。
健一郎は少し笑った後「そうだな。いいかもしれないね。……でも香織は結婚してるよきっと。これから、素敵な人とたくさん出会うから」と言って少しだけ寂しそうに笑っていたのをよく覚えている。
◆
「会うのは1年以上ぶりですね?」
食前酒を終え、料理が運ばれてくるのを待ちながら香織は聞いた。健一郎と話すときは、今でも基本的には敬語を使う。どちらかというと20代の頃は敬語をあまり使っていなかったくらいだ。
彼とは1年以上前、オープンして間もない『海栗BAR Kai一章』でウニづくしの料理を一緒に堪能したのが最後だったはずだ。
「あんまり連絡が来なくなったから幸せなんだろうなと思っていたけど、ついに結婚するんだね。」
「うん、今まで色々あったけどやっと落ち着けそうですよ。結婚してもたまには飲みに行きましょうね!」
「もちろんだよ。」
そう言って今日も、これまでのように香織のどうしようもない過去の恋愛話で笑い合い、たくさんのお酒を飲んだ。
きっと香織が結婚しても、年に数回は会って食事に行くことがあるだろう。香織は婚約者にも健一郎の話はしており、彼は年の離れた異性の飲み友達がいることを理解し、受け入れてくれている。
健一郎とお互いのタイミングが合えば、恋人同士になっていたのかもしれないと思ったことは何度かある。香織が言った「10年後もお互い一人だったら……」という言葉も、実はわりと本気だった。
ただ、15歳という年の差を香織が思っていた以上に健一郎は気にしていたように思う。大抵の男性は若い女が好きだが、若さに対して無駄に遠慮してしまう男もいることを香織は学んだ。
愛ではなく恋でもない、友情に一番近いのだが厳密には少し違う、そんな不確かな関係も男女の間には存在する。唯一、香織にとって健一郎がそんな存在であることは、確かな事実だった。






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