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日比谷線の女 Vol.2

日比谷線の女:弁護士の彼に「下流」の烙印を押された、広尾ガーデンヒルズの夜

緑の多さと街の穏やかさに惚れ込んでこのマンションを選んだと孝太郎は得意そうに言っていた。一度住むとこのマンションの虜になり、長く住む人が多いため、空き物件が出るのは貴重なのだ。この中で違うヒルへ引っ越す人も多いらしく、孝太郎もいずれは今住んでいるイーストヒルからサウスヒルへ移りたいと言っていた。

デートはもっぱら映画鑑賞。休日は六本木ヒルズで映画を観て、帰りは外苑西通りを手を繋いで歩いて帰る。ガーデンヒルズに入れば緑が生い茂る道を歩き、すれ違う住人たちと軽い会釈をする。部屋に戻れば映画の感想に花を咲かせながらワインで乾杯。

『明治屋』で一緒に食材を選んで、洗剤やキッチンペーパーまで買った日には、気分はもう弁護士を夫に持つ裕福な若い妻だった。

ガーデンヒルズでは、香織が一人で歩いていてもすれ違う人は皆、温和な笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。

住人同士の連帯意識が強いのか、余裕のある暮らしが慈悲深さを育むのか。よそ者ながらこの世界の一部になれた自分を少し誇らしく思ったものだ。

「私もここに住みたいな」と軽くジャブを打ってみても「じゃあ仕事頑張りな。起業でもすれば?」と言われるだけだった。そんな時は、軽く流されたことにショックを受けながらも「まだ気が早いよね」と自分を納得させていたものだ。当時の香織は、孝太郎との未来を心から信じていた。


ところが、うまくいっていると思ったこの恋愛も、別れは意外と早く訪れた。

彼は普段はとても温和な性格だった。洗面台の下に髪の毛が1本でも落ちているのを見つけると「ちゃんと拾ってね」と言うくらいの神経質な部分はあったが、そう言われればこれからは気をつけようと素直に反省していた。

だが、どうしても許せない事があった。それは孝太郎の上から目線な態度が稀に顔を出す所だ。

香織の実家は孝太郎のような名家ではない。それでも一部上場企業の福岡支社に務めるサラリーマンの父と、専業主婦の母の元で何不自由なく育った。

就職した会社だって、大好きな旅行関係で業界ではトップの会社だ。いずれは旅行プランの企画や海外との交渉もしたいと思っていた。

それを孝太郎は、自分の機嫌が悪い時に見下すようにこう言うのだった。

「君と僕とは、背負っているものが違うんだ。わかった風な口聞かないでくれる? 本当は君、下流なんだから」と。それも氷のように冷たい瞳で。

「下流」という言葉を初めて聞いたときは、あまりにびっくりして素直に受け入れてしまった。だが、2度、3度と言われる内に香織も黙っていられなくなった。

付き合って3ヶ月目を迎える頃には、気の強い香織が孝太郎に反論することが増え、ついに別れ話を切り出された。

自分のことならまだしも、会社や家族のことまで馬鹿にされているようで、さすがの香織も嫌気が差し、別れをすんなり受け入れた。ただどちらかと言うと、孝太郎よりも広尾ガーデンヒルズでの暮らしには、少し未練があった。

だから「この悔しさをバネに、本当に自分で住めるようになってやる!」とガーデンヒルズの坂を下って駅へ向かいながら、仕事への情熱を燃やしたものだ。

広尾に足を運ばなくなった頃、気がつけば香織の東京1年目も終わろうとしていた。

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日比谷線の女

過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。

そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。

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