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東京DINKS Vol.15

東京DINKS:34歳が思う、思い出したらきっと泣いてしまう夜の出来事



太一との気まずい日々を送っている愛子に、寛から連絡が来た。愛子はあの苦い思い出から迷いながらも、今回の件を寛に相談しようと心に決め、約束を取り付けた。

当日、先に着いたのは愛子だった。愛子が西麻布の『ハウス』を選んだのは、最近の荒んだ心を、ウッディな店内とストウブで仕上げるココット料理で温めてもらいたいと思ってのことだった。

少し遅れてきた寛と向かい合い、愛子は話を切り出すタイミングを推し量っていた。だがそれは、寛から始められた。

「うちの会社に、山内葵と言う女性がいるんだ。」
寛の口から思いがけない名前が出され、愛子はいきなり胸ぐらを掴まれたような衝撃を覚えた。

確実に動揺している愛子を、これ以上刺激しないよう、細心の注意を払いながら、寛は葵から大体の話は聞いたことを告げた。

「そっか、世の中って狭いね。だから彼女は寛のことを知ってたんだね。寛にこんな惨めな姿見られるなんて…」

全てを言い終える前に、愛子の言葉は宙に消える。寛は、そんなことは気にせず、誠意を込めて言った。

「また、シンガポールに行くことに決めた。今度は2〜3年なんて期間は決まっていない。10年以上、ベースを向こうに置こうと思っている。結婚してほしいとは言わない。ただ、側にいて欲しい。一緒にシンガポールへ行ってくれないか?」

寛はまっすぐ愛子を見たまま軽く手を組み、テーブルの上に置いている。料理人のように短く手入れされた爪、太く力強さを感じさせる指。愛子は今でも寛の手の感触を覚えている。

その手が、少しだけ震えていた。寛は真剣だった。それが、愛子には痛いほど伝わってきた。



寛と別れ、愛子は一人で表参道を歩く。『アップルストア』を過ぎると、以前通った時は工事中だった場所に『サンローラン』がオープンしていた。その大きなガラスに映る自分の表情を見て、寛からの申し入れに心が揺れていることを自分でも認めた。

太一との将来に不安を抱いていた愛子にとって、寛からの誘いは暗闇の中で見つけた光のようだった。

6年前に選ばなかった道が、再び自分の前に示されたのだ。そっぽを向いた女神が、もう一度手を差し伸べてくれているのではないかと愛子には思えた。

思えば、愛子は一度も寛を嫌いになったことがないのだ。6年前に別れたのも、仕事にやりがいを感じ始めた矢先に、キャリアを捨てるという選択ができなかったからだ。寛には何の問題もなかった。

もちろん今、仕事を辞めることは愛子のキャリアプランの中にはなかった。だが、仕事への自信がついた今、これまでのキャリアを活かせる仕事をシンガポールで探すのも悪くないなと思えた。

愛子はアメリカへの留学経験があるのだから、海外生活にもともと興味はある。

考えれば考えるほどに、寛と一緒になるべきではないのか、少なくとも太一とこのまま生活するのは難しいのではないかと思える。

ドラマなんかではちょうどこんなタイミングで、愛子の妊娠が発覚…なんてことがあるのかもしれないが、太一とは3ヶ月以上ご無沙汰だった。

もし離婚したら、太一はどうするのだろうか。浮気相手に自宅まで乗り込まれたのだから、太一が離婚を拒否することはできないだろう。まさかあの葵という女と再婚するとも愛子には思えない。

太一と寛、どちらを選んでも後悔する日が来るかもしれないと思うと、愛子は怖くて何も動き出せなくなりそうになった。

34歳でこんなことを言うと張り倒されてしまいそうだから、決して口には出さないが、愛子は思った。いつかこの夜を思い出して、きっと泣くだろうと。

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国内で360万世帯いるといわれる、意識的に子どもを作らない共働きの夫婦、DINKS(=Double Income No Kids)。東京のDINKSの生態を描いていきます。

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