イベントが終わったのは、21時20分を過ぎた頃だった。
名刺交換の列がようやく途切れ、亮さんが私のところへ戻ってくる。
「待たせた。行こうか」
「いいの?疲れてない?」
「平気。真理恵の話も聞きたいし」
その言葉に嬉しくなった時、背後から「亮」と呼ぶ声がした。エリカさんだ。
エリカさんのそばには、先ほどステージにいた海外投資家と、数人の関係者がいる。
「このあとだけど、先方がもう少し話したいって。今日中に温度感を確認しておきたい」
「今から?」
亮さんが腕時計を見た。
「ごめん。30分でいい。私だけだと商社側とのスキームを詰めきれない」
エリカさんは私に気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「飯島さん、ごめんなさい。お食事の約束でしたよね」
悪意はない。むしろ彼女は、私よりずっと正直だ。必要だから来てほしいと、ためらわず口にできる。
亮さんはすぐには返事をせず、私を見た。
月曜の夜なら、私の答えを待たずに行っていたかもしれない。今はちゃんと、私が何と言うか待っている。
だからこそ、困らせたくなかった。
「行ってきて。せっかくの機会だし、亮さんがいないとダメだと思うし」
口から出た言葉は、いつもの模範解答だった。
「でも」
「私も明日の朝、早いので。今日はスマホを返しに来ただけですから」
楽しみにしていた時間を、“だけ”がつくつまらない時間に自分で変えてしまう。
「…じゃあ、終わったら連絡する。ごめん」
そう答えた亮さんは、それから少し声を落として、「さっきの話、よかった」と付け加えた。
仕事を認められた喜びで、寂しさもすっかり、なかったことになった。
一人でエレベーターに乗りこむ。
閉まりかけた扉の向こうで、エリカさんが亮さんにタブレットを差し出しているのが見えた。亮さんはすっかり仕事モードの表情を切り替え、画面を覗き込んでいる。
会場を出ると、ガラス越しに東京タワーが赤く光っていた。さっきまで大勢の人に囲まれていたのに、夜風の中へ一人で放り出されたような気がする。
亮さんとエリカさんの距離は、近い。
でも、あれは恋愛ではない。分かっている。
― だけど…。やっぱりどうしても、苦しい気がする。
東京タワーの見える道をゆっくりと歩きながら、この苦しさの正体を探ろうとした。
きっと、エリカさんが女性…しかも、とびきりの美人の女性だから…なんて理由じゃない。
エリカさんは、亮さんが見ている未来を、同じ速度で見ている。
私が知らない予定を知っていて、必要な時には「来て」と言えて、彼の隣で自分の役割を果たしている。
一方、私は恋人なのに、亮さんの予定が空くのを待つことしかしていない。
それがものすごく苦しくて、そんな自分にウンザリしているのだ。
― もしかしたら…。
私が欲しいのは、「亮さんの優先順位1番」なんかじゃない?
左右交互に先頭を競い合う自分のつま先を見ながら、初めてそう思った。
帰宅してすぐに、公募用の資料を開いた。
亮さんが集めてくれた海外データの隣に、今日の投資家から聞かれた質問を書き留める。
エリカさんに勝ちたいわけではない。亮さんに選ばれるためでもない。
自分の人生を、誰かの予定が空くまで保留にしておくのをやめたかった。そんな焦りに突き動かされて、とにかく頭の中にある情報を形に変えていく。
気づけば、日付は変わっていた。
午前0時51分。机の上でスマホが震える。
『終わった。今から会える?』
亮さんからだった。
いつもの私なら、たとえベッドの中にいたとしても、すぐに『会えるよ』と返してメイクをする。
明日の朝が早くても、資料の途中でも、亮さんに会える機会を逃したくないから。
月曜には、会いたいと言えた。
今日は、亮さんも私の返事を待ってくれた。少しずつ変わろうとしてくれているのは分かっている。
それでも、画面の中の『今から』という四文字を見つめていると――胸の奥に、小さな怒りが湧いたのだ。私は今日も、亮さんの用事が全部終わったあとの時間に呼ばれている。
『明日早いから、今日は会えない…』
と、そこまで打って、消す。
断る理由まで、きれいに説明しようとする自分が嫌になった。
私はスマホを伏せ、公募の資料へ視線を戻した。
返事をしないまま、午前1時になった。
亮さんからのメッセージを無視したのは――出会ってから、初めてだ。
▶前回:忙しい彼と会えるのは、いつも突然で短時間。ガマンが限界に達した女は思わず本音をぶつけたら…
▶1話目はこちら:ドタキャンに深夜の呼び出し…。33歳商社マン彼氏との恋に未来はありますか?
▶Next:11月3日 火曜更新予定
亮からの連絡を、初めて無視した真理恵。父にまつわる記憶に向き合い…。






この記事へのコメント
真理恵今まで深夜の連絡でも構わなずメイクしてまで会ってたなんて...もっと大事にしてくれる人を見つけた方がいいと思う。 もう少し話の展開をスピードup お願いします。