あっというまに1時間あまりの登壇イベントは終了した。
参加者たちは続々と、第2部の懇談会のドリンクを取りに行くために席を立つ。その横で私は、スマホの重さに負けたのか、椅子に座ったまま動けずにいた。
けれど、次の瞬間。
「飯島さん、ですよね?」
声をかけられて振り向くと、立っていたのはエリカさんだ。
派手ではないのに、隙がない美人。近くで見るとまるで美術品のように整った顔をしていて、けれど笑顔には、人を緊張させない柔らかさがある。
「はい。あの…」
「届け物のために来てくださったって。ごめんなさい。亮、ちょっと手が離せないみたいで」
「あ、はい。そうなんですね」
何かを受け取る形で差し出されている白く美しい手のひらを見て、エリカさんづてにスマホを返す段取りになっていることに気が付く。
黒いスマホを差し出すとエリカさんは、「よかった」と心底ほっとしたように息をつき、また柔らかい笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「亮から聞いてます。メーカーの方ですよね」
彼女、ではなく、メーカーの人。
もちろん、仕事の場なのだから、それで正しい。
だけど、頭では理解しているその裏側で、私はショックを受けていた。
自然に「亮」と呼ぶエリカさんを目の前にしたこと。それから、私が亮さんの世界の中で、どんな場所にいるのかを突きつけられたような、被害妄想じみた感情に。
「月曜の夜はすみませんでした。私、亮に届いてると思って何度もメッセージを送っちゃって」
「いえ、全然大丈夫です!気にしないでください」
― もし“エリカ”さんに対面したらどんな顔をするのかな…。
会場に向かう途中、ずっとそう考えを巡らせてきた。けれど、そんなことは全く無意味なことの様に、エリカさんはからりと笑う。
「投資家向けの資料を直してたんです。条件が急に変わって、亮が持ってる数字じゃないと間に合わなくて。私、焦ると文章が大げさになっちゃうんですよね」
『亮じゃなきゃダメ』には、ちゃんと仕事上の理由があった。きっとそんなことなのだろうと分かりきっていたけれど、それでも安心してしまう自分が恥ずかしかった。
「いえいえ、全然です。お仕事、お忙しいですよね」
謎の恐縮をし続ける私に、エリカさんは言う。
「あの人、ほんっとに働くの好きですよね」
目線の先には、少し離れた場所で参加者に囲まれている亮さんの姿があった。
「でも今、商社の案件とこっちの資金調達、それに海外展開の準備まで、ほとんど一人で抱えてるんです。シンガポールでも、まともに寝てないと思う」
エリカの口から語られる亮さんの一週間は、私の知らない予定で隙間なく埋まっていた。
亮さんの睡眠時間まで知っているエリカさんは、それを目の当たりにしたのだろうか。それとも、亮さんから連絡をもらっているのだろうか。想像してみてもわからなかった。
「エリカ!」
人垣を抜けてきた亮さんが、彼女の手にあるスマホを見て、それから私を見た。
「真理恵。来てくれたんだ」
名前を呼ばれただけで、張りつめていたものが少し緩む。
「ないと困るかなと思って」
「困ってた。ありがとう」
亮さんは私のグラスが空なのに気づき、通りかかったスタッフから炭酸水を受け取って渡してくれた。
「何か食べた?」
「まだだよ」
「終わったらなんか食べに行こう。思ったより早く…多分、21時には抜けられるから」
私たちの会話を聞いていたエリカさんが、ほんの少しだけ目を見開く。
その反応に、なぜか救われた。彼女だって亮さんの――私たちのことを、全部知っているわけではない。
そこへ、亮さんを探していた投資家が近づいてきた。すると亮さんは、挨拶もそこそこに突然、私の紹介を始める。
「ちょうどよかった。紹介します、こちら飯島さん。メーカー側で一番現場を分かってる人です」
突然紹介され、私は慌てて名刺を取り出す。
投資家から聞かれたのは、ウェルビーイング製品が習慣として定着しない理由だった。私はユーザーテストで見たことを、自分の言葉で伝えようとする。
「機能が足りないというより、最初の一週間に生活へ組み込めないことが問題だと思います。毎日頑張って使う製品は、健康のためでも続きません」
相手は興味深そうに頷き、追加の質問をしてきた。亮さんは口を挟まず、私の答えを聞いている。
会議室で初めて会った日、私の企画を「社内で通しやすい商品」と切った人。
その亮さんが今は、私の説明に少し誇らしそうな顔をしていた。
― なんだろう。ちょっと、嬉しいかも…?
「メーカーの人」という紹介を受けたこと。さっきは少しモヤモヤしてしまったというのに、今は不思議と嬉しいのだから自分でも調子がいいと思う。
やっぱり私は、仕事が好きなのだ。亮さんにはさすがに、敵わないけれど。
― うん、そうだよ。仕事で忙しいのって、尊敬できることなんだから。彼女ならやっぱり、ワガママ言うより応援してあげないとダメだよね。
そうやって気を取り直しながら、私を交えて投資家の人と話が終わった瞬間、エリカさんはタイミングを見計らったかのように、亮さんに向かって英語で短く何かを告げた。
亮さんは視線で答えたかと思うと、ふたり同時に会場の奥に移動した。
言葉にしなくても通じるふたりに、私はまた嫉妬してしまった。
でも、仕事に全力を注ぐ亮さんに共感したばかりなのだから、と自分に言い聞かせてその感情を無視した。






この記事へのコメント
真理恵今まで深夜の連絡でも構わなずメイクしてまで会ってたなんて...もっと大事にしてくれる人を見つけた方がいいと思う。 もう少し話の展開をスピードup お願いします。