1週間前・リオ・プロモーションのレコーディングスタジオ
「サビ頭のピッチベンド、カーブが緩い。ヒステリックに感じるくらいにエッジを立たせて」
淡々と続く真壁の指示に、エンジニアが最新のSSLコンソールを操作して応える。16歳のYUMEの声に25歳のYUMEが作ったメロディを歌わせるため、気が遠くなるほど細かな補正作業が繰り返されていた。
レコーディングスタジオには、エンジニアと、真壁、ともみの3人だけ。そしてガラスを隔てたブースの奥に、指示を待つYUMEがいる。16歳の歌声を25歳へとエイジング加工するため、今のYUMEの声がサンプルとしてどうしても必要だと、真壁が言い出したからだ。
トラウマで歌うことはできない――その診断書は契約を交わす時に共有したはずなのに。
けれど真壁は、「ただの素材集めなのだから歌う必要はない」と悪びれる様子もなかった。心の傷を与えた当事者が、その痛みを平然と軽んじる無神経さ。断ろうと口を開きかけたともみを制して、承諾したのはYUME自身だった。
「…ホントに…大丈夫なの?」
「たぶん…ただ声を採取する作業だと思えば大丈夫だと思います。歌うのだと意識しなければ」
「でも…」
「挑戦してみたいんです。今を逃すとダメな気がして」
YUMEはともみを安心させるように微笑み、ブースへ入っていった。そして今まさに、真壁とエンジニアに指示されるがまま、音階や単語、ブレス音を、吹き込んでいるのだけれど。
― 無理……してるじゃない。
ガラスの向こうのYUMEの横顔が、遠目にもみるみる青ざめていく。1つ録音し、カットがかかるたびに肩を大きく揺らして息を吐き出す様子に、ともみは指先を強く握り込む。
それでも、YUMEは逃げ出さなかった。
子音の破裂音、母音のアタック、喉の奥から漏れる微かな息遣い。次々に採取されていくそれらが、AIの学習モデルへ流し込まれ1つの音を作っていく。その後さらに、エンジニアにより調整され、やがて――“ハスキーなのにクリスタルのようだ”と称賛されていた16歳のYUMEの歌声に、25歳らしい成熟が重なった、大人びた切ないメロディがスピーカーから流れ出した。
「……うん、とりあえず今日は、これでOKとしよう」
真壁は右の口角をきゅっとあげた。一見皮肉げに見えるそれが、彼女なりの満足を表すものだと、ともみは経験から知っている。
「あの頃のYUMEの高音を活かしつつ、エイジングも自然。AIがこのレベルで機能してくれるなら、いっそ歌えなくなった方が好都合、って時代がきたのかもね」
ともみは思わず「は?」と唸りそうになった。真壁の発言がまだブースの中にいるYUMEに届かなかったことは救いだ。
「歌えなくなった方が好都合、とはどういうことでしょう。そもそも真壁さんこそが以前は誰よりも――生歌でのパフォーマンスにこだわっていらっしゃったじゃないですか」
ともみは笑顔を張り付けて問い返した。かつては「お客様に失礼だから」とライブでの口パクを一切許さなかった真壁。その信念だけは今でも尊敬に値するものだと思っていたのに。
「人間の喉も声も、老化するしブレる――いわゆる消耗品だって気づいたのよ。でもこの方法なら、YUMEはこれからもずっと――永遠のディーバとして美しく歳を重ねることができる。
絶頂期の喉を凍らせておけるようなものでしょう。どれだけ使いまわしても永遠に劣化しない、パーフェクトな声をね」
ボルドーの長く尖った爪の先で、真壁は器用にスイーツをつまんだ。レコーディング中の糖分摂取に不可欠だと真壁の秘書が常備しているものの1つ――今日は、ジャン=ポール・エヴァンの一口サイズのビターなトリュフチョコレート。それをパクリ、またパクリと咀嚼すら惜しむように飲み込んでいく。まるで獲物を丸飲みする捕食動物のようで、ともみの背がゾクリと震えた。
「……何か不満でも?」
食べ終えた指先をウェットティッシュで拭う真壁に冷ややかに問われて、ともみは自分が眉根にしわを寄せていたことに気づいた。咄嗟に表情を緩め、言葉を返す。
「いえ…少し意外だったというか。今、AI生成によるドラマや音楽がクリエイターたちを脅かしていますけど、真壁さんはアーティストの権利を守るというより、積極的にAIを使っていきたいタイプ、ということですか?」
「それは違う」
「違う?」
「ケースバイケースよ。私が作りたいクリエーションにどちらが適しているかで使い分けているだけ。生身の歌声だろうがAIだろうが、世の中を熱狂させるものを生み続けた者の勝ちでしょ?私が描いた世界を完璧に実現するためなら、どんな手段だって正義よ」
“どんな手段だって”という響きと共に、佐藤の事務所で見た、所属タレントたちのファイル、あの“処置”の赤文字が、鮮明に脳裏をよぎる。そして、佐藤の言葉も。
『人は慢心するものですよ。真壁さんは巨万の金を動かすヒットメーカーになり、今や彼女をたしなめられる存在はいない。まるで全能の神か仏かにでもなったかのようなふるまいですが、幸か不幸かその方法で今まで成功してきてしまった』
そのとき、ギィっと重い音がして、レコーディングブースからYUMEが出てきた。その青白かった顔に赤みが戻ったことに、ともみがホッとしたのも束の間――YUMEは、ともみの元には戻らず、ディレクター席に座る真壁に歩み寄った。そして。
「真壁さん。本番で、歌わせてもらうことはできませんか」







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