シャンパンの泡の弾ける音が、やけによく聞こえた。
「スタートアップの方?」
「商社の案件と両方。現地のパートナーに急に呼ばれて。金曜の朝便で、日曜には戻る」
― いつ決まったの?私がレストラン予約していたこと、覚えていた?半年の記念日だって、知っていた?
聞きたいことはいくつもあるのに、口から出たのは別の言葉だった。
「そっかー。大変…ですね」
亮さんがわずかに眉を寄せる。
「ごめん。店、予約してくれてたよね」
覚えてくれていた。そのことにホッとしてしまう自分が悔しい。
「キャンセルしておくから大丈夫」
「キャンセル料、俺が払う。帰ったら必ず埋め合わせるから」
お金の問題ではない、とは言えなかった。埋め合わせではなく、その日を一緒に楽しみにしてほしかったのだとも。
「本当に大丈夫だよ。仕事なら仕方ないし」
また言ってしまった。
――大丈夫。
なんて便利な言葉なのだろう。
相手を責めずにすむ。場の空気も壊さない。自分の気持ちだけを、なかったことにできる。
亮さんは何か言いかけたが、その矢先に彼がカウンターに伏せていたスマホが震えた。
画面を確認し、「ごめん、これだけ」といいながら短く返信する。その横顔はもう、私の恋人ではなく、誰かの問題を解決する“神崎亮”だった。
ふいにまた、古い記憶が胸をかすめる。亮さんとの出会いなんかよりも、もっともっと、ずっと昔の記憶。
古い体育館の匂い。手帳。革の表紙。土曜日の欄に書き込まれた2本の訂正線と、その隣に書き足された小さな字。
“真理恵 吹奏楽・都大会”――――。
「真理恵」
またしても、亮さんの声で現実に引き戻される。
― 私は…。
じっとシャンパンの泡を見つめる私の前で、亮さんは再びスマホを伏せた。
「本当に、大丈夫?」
…こうして聞いてくれているのだ。もしかしたら、言えるかもしれない。
楽しみにしていた。会いたかった。私の予定も、あなたの予定と同じ重さで扱ってほしい。
恋人同士なのだからきっと、伝えたっていいはずなのだ。
けれど…亮さんの目の下には、薄い影がある。今夜だって忙しい合間を縫って来てくれたことは分かっていた。
― 私は…大切な人の時間を奪うのが、怖い。
困らせたくない。重い女だと思われたくない。
付き合って半年。寂しいと言うには、まだ早い気がした。
「うん。ぜんぜん大丈夫」
結局、私にできるのは今夜も、いつものように口角を上げることだけだった。
亮さんはじっと私の顔を見つめる。
その沈黙に耐えられず、私はグラスへ手を伸ばす。
午前1時を回った店内で、シャンパンの泡だけが、行き場もなく消えていった。
恋愛には、待つことが付き物だ。
会える日を待つのも、返事を待つのも、言葉にしてくれる瞬間を待つのも、ごく普通のこと。
そうして、別れるかも結婚するかもわからないこの先の未来を“保留”にしつづけて、みんな恋をしている。
でも――。
大人なのだ。待つことにも保留することにも、いつのまにか慣れてしまう。
― うん。それが、普通のことなんだよね。
帰宅後、私はクローゼットの新しいワンピースを見た。ハサミでタグを外す代わりに、スマホを取り出してレストランの予約画面を開く。
『1週間前のキャンセル料 1万円』
言いようのないこの寂しさに、値段をつけられたような気がした。
1万円なら払える。予約も取り直せる。新しい日程を決めれば、たぶん亮さんは前よりいい店を探してくれるだろう。
けれど、楽しみにしていた来週の金曜日だけは戻らない。予定は移せても、期待していた時間まで同じ場所へ移せるわけではない。
レストランのキャンセルポリシーを見る限り、日程の変更ならもしかしたらキャンセル料はかからない可能性があった。
でも、亮さんの予定なんて分かるわけがない。少なくとも、私が優先されることはない。
「予定は未定。ペンディング…っと」
おちゃらけながら画面をタップする。
楽しみにしていたデートの予定が、シャンパンの泡みたいに指先で弾けた。
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シンガポールから届いた写真を見た健吾は、私が言えなかった本音を容赦なく言い当てる。









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