ディフューザーから香る柑橘系、様々な飲食物の混じり合った残り香、シャワールームで使用したであろうソープ類の気配、さらには3人の体臭もあるのだろうか。ラグジュアリーホテルのスイートルームには、しっかりと生活感が漂っていた。
「あ、お疲れさまです。こんな恰好ですみません」
リビングのソファーテーブルの前、絨毯の上にペタリと座り込み、長い足を放りだしてPCに向かっていた大輝が立ち上がり、崇に頭を下げた。上下ともグレーのスウェットで、ラフな乱れ髪に眼鏡といういで立ちでも品を滲ませる大輝に、崇は「こちらこそ、こんな時間に申し訳ない」と、笑みを整えた。
これ、監督からの差し入れです、と大輝に袋を渡した宮本が、どことなくきごちない。その理由がすぐに崇にはわかった。大輝のPCの横、テーブルに置かれていたのは、コンビニのコーヒーカップと、皿の上で半分ほどになっている豚まん。
リビングの奥、窓際のワーキングスペースでこちらに背中を向け、PC画面に集中しているキョウコの前にも、食べきったあとの包み紙があった。
既に買いましたとは言えなかったのだろう宮本の気遣いも、キョウコの好物を大輝が知っていたということも、気づいていないふりをして崇は「オレのことは気にせず、作業に戻ってください」と大輝の前を通り過ぎ、キョウコに近づいていく。
耳にはブルートゥースのイヤフォン。雨の音、もしくはせせらぎの音が流れているはずだ。執筆中のキョウコは、現実世界を遮断するための水音を好むのだから。
背後に立っても、軽快にキーボードを叩く音は止まらない。キョウコはゾーンに入っていると、さっき大輝が言っていたらしいが、物語の中に入り込んだ時の没頭力がキョウコの才能の1つで、だからこそ素晴らしい作品を生み出せるのだと、崇は誰よりも知っている。
― 誰よりも、な。
意図せず、大輝の方を振り返ってしまったが、彼もまた、既に崇の訪問など忘れてしまったかのように、PC画面だけを見つめている。
不意に気づいた。室内に充満している熱狂のようなものに。今、キョウコと大輝の間に立っているはずの崇を避けるようにして流れ、キョウコと大輝だけを繋いでいるかのような、熱狂。
― なんだよ、これ。
気づいた時には、崇はキョウコの耳からイヤフォンを奪っていた。ゆっくりと見上げたキョウコの顔が、驚きに変わる。
「……誰だと思った?」
大輝だと疑わずに見上げた先が崇だと認識した。ウソが苦手なキョウコの、その表情の変化すら愛おしくて、憎らしくて、崇は精一杯の微笑みを向けた。
「なんで…」
「ごめん、邪魔だったかな」
「…そんな、ことは…」
見つめ合う2人を、宮本が、「監督、キョウコ先生のことが心配だったみたいですよ~。キョウコ先生、愛されてますねぇ」と、広いリビングの端から叫んでからかう。大輝の視線もこちらに注がれた気配を感じながら、崇は穏やかに言った。
「キョウコと、友坂くんの相性がとてもいいと、宮本くんが褒めてたよ」
キョウコの動揺が心地よい。場の支配権を取り戻したような高揚感の中、ふと、イヤフォンから、零れる音が聞こえてきた。雨の音でもせせらぎの音でもない、聞き慣れぬ…ピアノのような、鍵盤の音。
「……何の曲?」
答えないキョウコに、崇は思わず笑いだしそうになった。キョウコが何より大切にしている執筆、その時の習慣さえも、もう自分の知っているキョウコとは違うのだなと。けれど、それならそれで構わない。
― もとに戻せばいい。…何もかもを。
「何しに、来たの?」
「第三稿、すごく良くできてるって聞いたら、楽しみで朝まで待てなくなってさ。ここで読ませてもらっていいかな」
キョウコから最初に離婚を切り出されたのは、もう随分前になる。以来、拒み続けてきたけれど、最近、もう少しだけ待ってくれたら…と承諾したふりをした。
― 手放すつもりなんて、ないけどな。
今も昔も…そして未来でも、最愛で唯一の人。キョウコを手放すつもりなど、崇にはさらさらないのだ。
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