大量に作り続けているクッキーは、その全てが試作品だ。
六郎さんがチョコレートケーキを買って来てくれたクリスマスの夜。久しぶりにゆっくりと話す時間を持った私は、思っていることを全て、しっかりと六郎さんに伝えることにした。
「私、どうしても働きたい。菜奈の幼稚園は預かり時間も短いし、これから小学校受験が控えてるのもわかってる。
それでも私、できる範囲でいいから何かして社会と繋がっていたいの」
そう真剣に伝えると、六郎さんは意外にも本当に驚いたような表情を浮かべて言ったのだ。
「そういうことだったら、もちろん応援するよ」と。
これまでにも六郎さんに「働きたい」と伝えたことは、何度かあったと思う。
だけど、どこか勝手に遠慮していたせいなのか、言葉足らずだったのかもしれない。
六郎さんは私が働きたいと思う理由を「生活費がもっと欲しいから」だと思いこんでいて、それでひたすら、家庭に入れるお金を増やすことに注力していたとのことだった。
「今の生活は、俺の給料だけでも回していけてるんだからさ。どうせなら早紀はこの際、ずっとやってみたかったことにチャレンジしてみたら」
そう背中を押されて、私の心の中にまっさきに思い浮かんだ仕事。それは、六郎さんや双葉と同じ編集者に戻ることではなく───パティシエだったのだ。
カヌレが好き。チョコレートが好き。そして私の得意料理は、我が家秘伝のクッキー。
そうして六郎さんと出した答えは、クッキーのネットショップの開設。年末から色々とプランを練り始め、今は3月からの販売に向けて具体的な準備を進めている。
食品衛生責任者の資格は取得した。菓子製造業許可を取得済みのレンタルキッチンの目星もつけた。
個人でネット販売を始めるのは、そういったプラットフォームを使えば思ったよりも簡単にできることがわかったし、掲載する商品写真や文章は現役編集者である六郎さんが監修してくれることになっている。
残る大仕事は、魅力的な商品を作ることだけなのだ。
クッキーの味にはもちろん自信があるけれど、なんのブランド力もない個人が実店舗も持たずにネットで販売するクッキーとなれば、ただ美味しいだけでは誰にも見向きされないことなんて分かりきっている。
― どうせやるなら、本気でやりたい。たくさんの人に「美味しい」って喜んでもらいたい。
ついに仕事ができる。幼い頃ずっと憧れていた、パティシエになるという夢に近づける。
久しぶりに感じる高揚感に駆られて、私の頭の中はもうクッキー一色なのだ。
幼稚園からバレエのお稽古へと菜奈を送迎し、夕食を食べさせてお風呂に入れる。寝かしつけの暗い子ども部屋の中でも菜奈の寝息が聞こえ始めると、すぐにスマホを取り出して、アイデア探しに没頭した。
ネットでアイデア作りに役立てているのは、専らSNSのThreadsだ。
一時期は六郎さんの愚痴を吐き出すだけの場所になってしまっていたThreadsだけど、いまは毎日クッキーの試作品を投稿しては、その反応を聞かせてもらっている。
『キャラメリゼしたナッツのクッキー。甘く香ばしい香りは、コーヒーや紅茶との相性ピッタリです』
お迎え前に投稿したナッツのクッキーにも、すでにたくさんのコメントがついている。
『美味しそう!』
『販売したら絶対買います♫』
嬉しくなるようなコメントがほとんどを占めているが、その中で私の目を引いたのは、“ハチ公”さんのコメントだ。
『すごくおいしそうですね。食べてみたいですけど、でも、私の好きな人はビールが好きで甘いもの好きじゃないですから、一緒に食べれないの悲しいですね:(』
― たしかに。ちょっと甘みが強すぎる…?
顔も名前も、年齢も性別すら分からないハチ公さんとは、いつのまにか相互フォローする仲になっている。
六郎さんと険悪になっていたあの頃。
『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』
そう書き込んでくれたハチ公さんは、そのどこか不思議な言葉遣いのコメントから、なぜだかインスピレーションをもらえることが多いのだ。
― ハチ公さんにも、好きな人と一緒に楽しんでほしいな。クッキーじゃなくて、ベーグルとか何か別の商品も作ってみる?いや、迷走してるかな。
菜奈がすっかり眠りについたことを確認した私は、子ども部屋を抜け出しまたしてもキッチンに向かう。
幼稚園に行っている午前中の間はもちろん、菜奈が寝てしまったあとの夜遅くの試作も、ここのところすっかり日課になっていた。








この記事へのコメント
との書き方がね。これでただ妻のことを相談してただけ等なら悪意を感じてしまうけど。
かなりの優男でいい話だったけど、“浮気の罪滅ぼし” を匂わせる予告文.....