「ただいま〜。…って、早紀、大丈夫…?」
22時過ぎに帰宅した六郎さんが、怪訝な顔を浮かべたのも無理はない。
よれた化粧。シワのついた部屋着。そんなボロボロの格好の妻が暗いリビングの奥のキッチンで、深夜に黙々とベーグルを茹でているのだ。
「あ、おかえりなさい」
「ごめん、また寝かしつけ間に合わなくて。試作品?」
「うん。どうしても、ただのクッキーじゃ決め手にかける気がして」
「…夕食はちゃんと食べた?」
「あ〜…。菜奈にはちゃんと食べさせたけど、考えてみたら私はクッキーだけだったかも」
「ええ…」
「でも、3月には販売するってネットで発表しちゃったし。休んでられないよ」
「…」
しばらく困ったような顔で黙っていた六郎さんだったけれど、ポリポリと頭をかいたかと思うと、決意の滲む声で私に話しかける。
「ねえ、早紀。明日は俺が菜奈を幼稚園に連れていくからさ、今夜だけ俺のワガママに付き合ってよ───」
◆
そこからは、怒涛の展開だった。
六郎さんはおもむろに誰かに電話をしたかと思うと、出しっぱなしだったお菓子作りの道具を洗い始める。恐縮する私に強い口調で、身支度を整えるように指示を出す。
着替えたころにやって来たのはなんと、大学院生をしている私の妹だ。
「六郎さんに呼ばれて来たよん!寝てる菜奈ちゃんと留守番してればいいんでしょ?余裕余裕〜」
そうしてあれよあれよとふたりでタクシーに乗り込み、私は今、なぜか真夜中の表参道にいる。
Aoビルの5階。『TWO ROOMS』と書いてある看板を奥へ進むと、大きい窓の向こうには東京の夜景を映した水面がキラキラと輝く。
年が明けてからずっと狭いキッチンにこもりきりになっていた私からみると、まるで海外リゾートのような異世界だ。深夜3時まで営業しているという店内はどこをとっても洗練されていて、“東京の最先端”を感じさせる。
そして、そんな店内で見ると、六郎さんもまるで別人みたいだ。
「適当に頼んじゃうからね」
そう言って手慣れた様子で料理をオーダーする六郎さんは、いつもへとへとで夜遅くに帰宅するオジサンと同一人物とは思えない。
六郎さんの元に届いた飲み物がいつもと同じウイスキーであることに少しだけホッとしながら、私は密かに胸のドキドキを感じていた。
驚きは、それだけではなかった。
鮟肝パテ×紫蘇×サワードゥクリスプ。馬刺しのカルパッチョ 柿×ルッコラ×ペコリーノチーズ。紅はるか×焦がしたまり醤油バター…。
イノベーティブ料理を謳っているだけあり、運ばれてくるお料理はどれも美味しいだけでなく、新しい。
「ん!この組み合わせ、こんなに美味しいんだ。意外…!」
ひとくち口に運ぶたびに、私の瞳がテラスの水面と同じようにキラキラ輝くのが、自分でも分かる。そして、そんな私を眺めて六郎さんが喜んでいることも、不思議と伝わってくる。
「いやぁ。今日はデスクでコンビニ飯だったから、夜食付き合ってもらって助かったわ」
「…私がアイデアに煮詰まってたのを見かねて、連れてきてくれたんでしょ」
「まあ、それもあるかな?でも普通に、たまにはこうして夫婦でデートしたいとは思ってたから。菜奈が生まれる前はよくこうして、深夜に甘いもの食べに出歩いたよな」
そう言いながら六郎さんは、なんでもないことのようにウイスキーのグラスを傾ける。
だけど、3年も夫婦をやっているのだ。隠せるわけがない。
子どもを置いて出られる、深夜に営業してるお店。私のアイデアにつながりそうな、新しさを感じられるお店。
私のためにそういうお店を探して連れてきてくれた。
六郎さんが素直になってくれないのだから、私だって素直になってなんてあげない。
「ねえ、ここのお料理を食べててアイデアが湧いてきたんだけどさ。ビールに合うクッキーっていうのはどうかな?
黒七味とか、海苔とか…。ジャーキーとか使ってみるのもよくない?」
新しい味覚に触れて思いついたアイデアを、次々に六郎さんに相談する。
いつのまにか焦りに変わってしまっていたワクワクを、六郎さんに惜しみなく共有することが、今夜この場所での私なりの「ありがとう」の代わりだ。
クッキーだからって、甘くなくたっていい。
子どもを人に預けて、デートに来たっていい。
深夜の東京の空気に、いつのまにか凝り固まっていた私の固定観念が解けていく。
相変わらずウイスキーのグラスを手放さない六郎さんの肩に、ゆっくりともたれかかる。
菜奈が間にいないことが少しだけ気恥ずかしかったけれど、今は真っ昼間じゃない。店内にはもっと大胆なカップルだっているのだから、今夜くらいかまわないだろう。
大きな肩の温かさを感じながら、こっそりと頭の中で考える。
― ビールに合うクッキーの他にも、ウイスキーに合うクッキーも考えてみようかな…。
▶前回:「LINEブロックされてる?」復縁したい元彼に勇気を出してメッセージを送ったら、未読スルーされ…
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
▶Next:1月26日 月曜更新予定
仕事へのチャレンジ、夫婦関係の修復に成功した早紀。でもその裏で実は、六郎は双葉と…。








この記事へのコメント
との書き方がね。これでただ妻のことを相談してただけ等なら悪意を感じてしまうけど。
かなりの優男でいい話だったけど、“浮気の罪滅ぼし” を匂わせる予告文.....