東京屈指の長い歴史を有する銀座には、創業およそ100年の老舗も数多くあり、それぞれが後世に語り継がれるべき、壮大なストーリーを持っている。
そのひとつひとつを紐解けば、見えてくるのは銀座という街の先進性。時の偉人たちにも愛された老舗を紹介する。
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1.高級天ぷらの礎を築いた“天一”は、日本を動かした存在だった
『銀座 天一 本店』
江戸前を語る上で、鮨と並んで欠かせない天ぷら。銀座はかつて築地に魚河岸があったこともあり、古くから名を馳せてきた激戦区だ。
いまも人気が続くことは現役で営業する老舗の盛況を見れば明らかだろう。なかでも“天一”は画期的な試みで業界に新風を吹き込んできた。
創業は1930年の人形町で、翌々年には銀座に移転している。創業者の矢吹勇雄氏は岡山の出身。最初の就職先も大阪という、いわば西の人だが、これが大きかった。
生粋の江戸っ子でない分、旧来の常識にとらわれず、良いと思った新しいものは柔軟に取り入れていた。
その第一が揚げ油。銀座に来てまもなく、伝統的な胡麻油オンリーから、当時輸入されたばかりのコーン油とのブレンドに替えたのだ。これにより、揚げ上がりは軽く、油切れの良い天ぷらを実現し、評判を集めていく。
店内にクーラーを設置したのも早かった。いまでは考えられないが、当時はデパートでも扇風機のみの時代。目の前で揚げる天ぷらは店内が暑くなり、客に敬遠されたため、夏場は休業するのが当たり前だった。
そんな中、「夏こそ天ぷらを」と広告を打った“天一”は画期的だっただろう。
同店の歴史を追っていくと、いろいろなタイミングで「早い」と驚くシーンに出くわす。戦後の復興もいち早く、終戦2ヶ月後の10月には店を建て直している。
素早い営業再開をときの外務大臣、吉田 茂は見逃さず、GHQ接待のために矢吹氏を官邸に呼んで天ぷらを揚げてほしいと依頼した。彼らに天ぷらの美味しさを知らしめることで早期独立を画策したのだろう。
以降、ビル・クリントン氏との公的昼食会をはじめ、国内外の首脳を含む大物政治家はもちろん、多くの文化人、海外セレブらが『天一』に集まり、親睦を深めた。
建物は3年前、ビルごと全面改築されたが、空間は完全に旧店を復元。欄間や鴨居、柱など、建材のほとんどを温存して再構築している。
この茶室風のカウンターでいまも軽い天ぷらを味わえば、自分も歴史に名を連ねたようで誇らしく思える。
2.1934年建造の壮麗な名建築で現代も飲める奇跡
『ビヤホールライオン 銀座七丁目店』
『ビヤホールライオン 銀座七丁目店』の前身は1899年、いまの銀座8丁目に誕生した『恵比壽ビヤホール』で、これが日本で「ビヤホール」を名乗った最初の例とされる。ゆえに銀座は発祥の地。この店は、由緒を伝える、歴史の生き証人だ。
現存する国内最古のビアホールという、いまの建物が竣工したのは1934年。当時の大日本麦酒社長にして東洋のビール王と称された馬越恭平の「ビールの殿堂」を造る構想からスタートした。
設計から施工までを任されたのは菅原栄蔵。フランク・ロイド・ライトの影響を強く受けた新進気鋭の建築家で、完成まで1年2ヶ月もの工期を要している。その間、全身全霊で打ち込んだのだろう。
ドイツ・ミュンヘンの酒場『ホフブロイハウス』のような存在を目指したとされ、精巧で美しい正面にあるガラスモザイクの大壁画もすべて菅原が下絵からデザイン。
ほかにも大麦の立ち姿を模したとされる力強い柱や、ビールの泡とブドウの房を写した繊細な丸ガラスのシャンデリアなど、ほとんどが完成当時のままをとどめる。
戦後の一時期はGHQが接収して室内でバーベキューをしたため、天井に煤がわずかに残っており、歴史を物語る。
戦災を免れたのはビールを欲した彼らがあえて空襲を避けたから、という噂も同時に残されているほどだ。
ビールはいまも熟練のプロが右手のジョッキを11度の角度でノズルに当て、左手でレバーを操作して一気に注ぐ。その美味しさは相変わらず。
周囲を見渡せば、今夜も客はさまざまで、楽しげなインバウンドの家族がいる一方で、文庫本片手にグラスを傾ける女性ひとり、こちらのテーブルでは見知らぬ隣人同士が乾杯をしている。これぞ馬越が思い描いたビールの殿堂そのもの。
「集う人々が心を開き、日常を忘れて屈託なく笑える、明るい明日を語り合える、それこそがビールの力であり、ビヤホールはそういう場所」
国の文化財に指定された歴史的遺構のなかで発案者の思惑どおり、今夜も変わらず美味しいビールが飲める。ここはやはり奇跡のような空間だ。
3.大スターも3日連続で通ったカフェーの不思議な磁力
『カフェーパウリスタ 銀座本店』
銀座の「カフェー」は飲食より、むしろ女給のサービスが主な売り物だったとよく説明されるが、それは昭和の初めに大流行したときの話。
『カフェーパウリスタ』が誕生した明治はいまと同じ純然たるカフェ。同店は交詢社向かいの角に建てられた3階建ての洋館で、「一合たっぷり入る厚手のカップ一杯の珈琲」と「米国風の黒いドーナッツと数種類のサンドウィッチ」を提供していたとされる。
なにやら、いまどきのコーヒーチェーンのメニュー構成を見るようで、面白い。
店の創業は1911年。時のブラジル共和国サンパウロ州政庁からコーヒーの普及事業を任されたのがきっかけで、「日本移民の労苦がもたらした収穫物」たる豆の販売店に併設される形で営業が始まっている。
フランス・パリで最古とされるカフェ『プロコップ』を模した店内の新しさに加え、周囲に新聞社が多かった当時の立地なども相まって、多くの文化人が集まるサロンの様相を呈していく。
大正時代には店の隣にあった時事新報社で社会部記者をしていた菊池 寛が高校で同期だった芥川龍之介とよく待ち合わせたことでも知られており、芥川の小説には具体的な固有名詞のほか、この店を舞台にしたと思しき「カッフェ」の描写が頻出する。
それほど深く愛された旧店だったが関東大震災で被災し閉業。その後は長く、コーヒー豆の販売だけを続けていくことになる。
現在の場所でカフェとして再生を果たすのは1970年。壁面の一部に鏡を設けたつくりは旧店から引用したイメージで、新装に当たってコーヒー農園で働く労働者の銅版画も飾っている。
この空間を愛した大スターといえばなんといってもジョン・レノンだろう。主夫業に専念していた1987年、愛妻オノ・ヨーコと訪れており、驚くことに3日連続で来店した逸話が残っている。
そのとき飲んだのが「パウリスタオールド」。いまもふたりが座ったソファで記念撮影する客は引きも切らず。その情景を見ていると本当に不思議な磁力を帯びたカフェと実感する。
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