「逃げてよかったじゃないですか」
「…え?」
「逃げたから、キョウコさんは恋を知ることができたんですよね」
「そう、ね」と呟いたキョウコの視線が琥珀色のカクテルに落ち、そのタイミングを待っていたかのように、グラスから落ちた水滴が、紙製のコースターに落ちて染みを作った。
「確かに私は、友坂くんのおかげで恋を知った。初恋、みたいなものね」
アラフォーの初恋なんて、と笑ってから、キョウコは続けた。
「友坂くんとの人生を選びたくて、私は夫に別れを告げた。でも夫には拒まれたの。その時一緒に進行させていた仕事が終わるまでは…と頼み込まれて。確かに、夫婦の仕事にスポンサーがついていることもあったし、そのプロジェクトを頓挫させてしまえばスタッフにも迷惑がかかることは理解できるから。
だから、私も夫の提案を受け入れた。そのうちにずるずる…1年、2年と時が過ぎてしまった。そのうちに夫は意地になったみたいに、絶対に別れないと言い出した。
誰か好きな人ができたのかと聞かれた。そうならどんな人か教えてくれと。でも絶対に友坂くんの存在を明かすわけにはいかなかったし、結果的に別れを望む理由を曖昧にしていたのも良くなかったのかもしれない」
「ご主人が先生の相手が大輝さんだと知ったら…大輝さんの未来が潰されてしまうと思ったんですか?」
業界での門倉崇監督の力は絶大だ。デビューしたばかりの新人脚本家など、その気になればあっさりと潰せてしまうだろう。でも、元々不倫を始めたのは門倉崇の方なのだ。いざとなれば刺し違えることもできただろうと、ともみが物騒なことを言うと、キョウコは弱々しく首を横に振った。
「崇は…夫は、そんなことはしない人だと信じられるの。夫は若いクリエーターを私怨で潰すような人じゃない。でもね、悪気なく誰かに愚痴る可能性はあるでしょう?それが業界内に広まってしまうことが怖かったの。
新人脚本家としてデビューしたばかりの友坂くんが、いわゆる“枕営業”的に、私を誘惑して仕事をとったと言われてしまったら?実際に男女が逆ならその手の噂は、沢山あるわよね。そしてそのレッテルが一度貼られたクリエーターの未来がどうなるか、ともみさんもよく…ご存じのはず」
確かにともみにとって、それは安易に想像できることだった。女優やタレントはもちろん、若い女性監督、プロデューサーなどの裏方スタッフでも、一度、男性権力者にすりよって成功したというウワサが出回ると、徐々に“汚い腫れ物”に触るような扱いになり、敬遠されるようになる。
そのうちに、そのウワサに喰われるようにして業界から消えていく…というパターンは少なくないのだ。それに。
— 大輝のあのルックスなら。なおさら。
あの美しさに才能が備わってしまっていることは、わかりやすく妬みの対象になりやすい。キョウコが大輝の脚本家としての成功に関与していないという真実は、2人の関係がバレた瞬間に面白おかしく吹き飛び、大輝の成功は、“有名女脚本家との枕営業によるもの”に変形するだろう。
それにキョウコと不倫の関係であったことは事実なのだから、たちが悪い。こんなに美味な餌はないとばかりに喰らいついてくる野次馬たち。その嬉々とする様相が目に浮かぶようで、ともみは嫌悪感を覚えながら聞いた。
「それが分かっていながら…離婚もできず、大輝さんとも離れられなかったんですね」
大輝が脚本家として活躍し始めてからもう3年ほど経っているとともみは聞いていたし、夫の愛人が現れたのが5年前だとすれば、2人の関係はもう随分長い。するとキョウコは悲し気に微笑んだ。
「危険だとはわかっているのに、ただ一緒にいたくて。友坂くんとの別れを想像することすらできなくなっていた。でもそんな罪深くて愚かな私の頭が一気に冷えることが起こった。脅されたの。友坂くんと別れなければ、彼との関係を世間に全て暴露すると」
「…ご主人から、ですか?」
ともみの質問にキョウコが首を横に振る。
「夫の不倫相手、よ。彼女が私の前に現れて言ったの。私のではなく、友坂くんの人生をめちゃくちゃにしてやる、とね。そんなこと絶対にダメでしょう?」
「…だから別れを?本当の理由を大輝さんには告げずに?」
「真実を告げたら——これはうぬぼれではなく、むしろ別れないと言われたはずよ。友坂くんは本当に優しいから…きっと自分より私を守ろうとしてしまう。そのために彼女に会いに行ってしまうと思った。
でも…彼女の様子はもう、普通じゃなかったの。捨て身で何をするか分からないような危険な相手に、友坂くんが対峙してしまうことだけは…絶対に阻止したかったから」
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▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
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この記事へのコメント
ジョン・レジェンドの All of me なら知ってる。 とりあえず光江さんBGMにもこだわってるんだね! ジャズならきっと別の曲だろうけど、「お店でたまたま耳にした歌詞がその客の人生を変える事もあるから」なんてステキ過ぎ。演歌のような歌詞w発言も◎