「約束をしてもらえないなら、教えられない。友坂くんだけじゃなくて、誰にも話さないと約束して欲しい」
ずっと穏やかな凪のようだったキョウコの瞳が、今日初めての強い光を放ち、ともみを射貫く。大輝に伝えられないのなら、聞く意味はあるのだろうかと迷いながらも、ともみが頷くと、キョウコは表情を少しだけ緩めてから、小さく、ありがとうと言った。
「今日ここまでお話してきて…ともみさんが、友坂くんのことを心から大切に想っているのが分かったから。元恋人に会うだけでも勇気が必要なのに、さっき私に怒ったでしょう?傷ついた彼のために、本当の気持ちを伝えてくれって。ともみさんは自分の立場よりも、友坂くんの心を優先することができる人なのよね」
言葉を返せないともみに、キョウコが続けた。
「不器用なくらい真面目で、でもとても強い。そんなともみさんに私は敬意を表したい。きっとこれからもずっと、ともみさんの強さが、友坂くんを守ってくれると思うから。だから本当のことを話すわ。だけど絶対に…秘密を守ってくれると約束してくれる?」
ともみは無言のまま、もう一度頷いた。それにホッとしたように微笑むと、キョウコは、私と友坂くんのなれそめから説明することになるけど…と話し始めた。
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キョウコの説明は、夫であり著名な映画監督の門倉崇の浮気相手の登場から始まり、ともみはとても驚いてしまった。門倉夫婦は結婚生活のお手本のようなオシドリ夫婦だというのが世間の評判だからだ。
今も門倉崇の不倫騒動などが騒がれている気配はないが、その不倫相手が現れたのはもう5年ほど前のことになるという。突然現れた“夫の愛人”に、キョウコは自分の人生観を揺るがされることになったという。
「恋愛感情を理解したとはいえないまま結婚したって話はさっきもしたけど、よく、推しって言うじゃない?そんなファン心理の憧れですら、私は今まで持ったことがなくて。とにかく“感情が凪”という感じの人生だった。
もちろん職業柄…想像することはできるのよ?でも恋焦がれる熱狂を体感したことがなかった。だから文章そのもので感情を揺さぶる小説家になるのは無理…というか、分析と構成で成立させて感情は映像に補足してもらうっていう脚本家の方が向いている。それは私の脚本の師匠にも言われたことなんだけれどね」
微かに自虐的に変わったその笑みを、ともみはただ言葉なく見つめる。
大輝とは、大輝が通っていた大学の特別講師と生徒として出会ったという。キョウコは、大輝が自分のどこを好きになってくれたのか分からないと言ったけれど、ともみにはよく分かる。
大輝もともみと同じように、キョウコの脚本のファンだったというから、まずはその才能に惚れて授業を受けたのだろう。けれどキョウコはとても真っすぐで健気だ。それが今日この短時間でともみにも伝わるほどに、女性としても人としても美しくて魅力的なのだから。
「門倉は…夫は、出会ってからずっと、私に好きだ、好きだと言葉で伝えてくれる人だったから。他に女の人がいるなんて考えたこともなかった。でも私の事務所に手紙が届いて」
「手紙…ですか?この時代に…?」
「そうなの。しかも筆ペンっぽい感じの達筆だったのよ。私はあなたのご主人と愛し合っていて、2人の子どもが欲しいと話しています。だから別れてくださいってね」
筆ペンの達筆で送られてくる愛人の略奪宣言なんて、狂気でしかないと黙ったともみに、キョウコがまるで他人事のように淡々と続けていく。
「夫と浮気という言葉が全然結びつかなかったから、最初は全く信じていなかったのね。彼には女性ファンも多いからストーカー的な熱烈なファンなんじゃないかと心配して手紙が届いたことを伝えたの。
そしたら夫に平謝りされて不倫が確定しちゃったのよね。夫は離婚したくない、一番大切なのは君だって…その時、ああ、ドラマみたいなセリフを現実でも言うものなのだなという感じで俯瞰の目線になっちゃって。
そのあとのことは…どこか朦朧としていて記憶が定かではないのだけれど、夫に謝られれば、謝られるほど、体の奥底がどんどん冷えていく感覚だけはよく覚えているのよね」
ともみはただ黙って続きを待った。
「夫とはその日以来、離れて暮らすようになったのだけれど…その手紙の主が私の大学まで会いにきたことがあって。25歳くらいの女性だった。夫が開催した映画制作のワークショップを専門学校で受けたことが出会いだったらしいんだけど。
彼女に言われたの。私は自分の人生を投げうっても尽くしたいし、彼を支えていく。彼のためなら何でもできる、と。
でもあなたは与えられるばかりで、彼に愛を返せていないですよねって。彼が何を望んでいるのかもわからないでしょう、彼から愛を搾取するばかりなら手放してくださいと。
反論すべきだったのに、言葉が出なかった。気づいてしまったから。確かに私は夫に有り余る愛を注がれてきた。けれど私は…彼に、何かを返せていたのだろうかと」
言葉を切ったキョウコの眉根が歪む。
「夫とは私が脚本家デビューした頃から、ずっと作品を一緒に作り上げてきた大切な仲間。恋人になったときも、プロポーズを受けたときも、激しい恋情ではなかったかもしれないけれど、私なりに彼を一番に想ってきたはずだった。けど…。
夫が私に与えてくれ続けた愛を、私は返す努力をしていなかったのではないかと愕然とした。そのとき、結婚してもう10年くらいが経っていたけれど…その間、私は彼を大切にできていた?できていなかったかもしれない。私が甘えて受け取るばかりだったのだから、彼が他の人に惹かれても仕方がない。私は人を愛せない欠陥品なのかもしれない、ってね」
繊細な人なのだとともみは思った。ただ夫を責めればいいのに、この人は自分を責めたのだ。
「気づいてしまったらダメだった。夫の気持ちが他の人に向いたこともなのだけれど…なんかもう全てがぐちゃぐちゃになって、夫と一緒に歩んできた日々への想いとか信頼とかが崩れて、人生の歩き方がよくわからなくなった感じで。
それでも仕事は絶え間なくあったし、夫と共同のプロジェクトも進行してたから、何とか平静を装っていたつもりだったんだけど——ある日、大輝くんの前で倒れてしまったの。それをきっかけに、彼との関係が少しずつ始まってしまった。僕を利用してくださいという言葉に甘えて、助けられて。
不倫を不倫で返すなんてバカなことを仕掛けたつもりはなかったけれど、今となれば、ただ…逃げたかったんだと思う」
先ほどまではしっとりとドビュッシーが弾かれていたグランドピアノの生演奏が、軽快なジャズに変わった。耳馴染みのあるその曲は、確か『All of Me』。軽快な曲調のわりに、“私の全てを賭けるからあなたから愛されたい”と懇願する演歌のような歌詞なのだと、ともみは光江に教わった。
「どんなに辛くて切実な想いでも、笑い飛ばすみたいに演奏してくれる。だからアタシはジャズが好きなんだよ」
実は、BAR・Sneetのプレイリストは全て光江が決めている。
「うちの店でたまたま耳にした曲や歌詞が、その客の人生を変えることもあるからね」
そんな意図で誰にも気づかれないかもしれない細部をも真剣に選び、メッセージを残そうとする光江のロマンティックなこだわりを思い出しながら、ともみは、黙ってしまったキョウコに言った。
この記事へのコメント
ジョン・レジェンドの All of me なら知ってる。 とりあえず光江さんBGMにもこだわってるんだね! ジャズならきっと別の曲だろうけど、「お店でたまたま耳にした歌詞がその客の人生を変える事もあるから」なんてステキ過ぎ。演歌のような歌詞w発言も◎