しばらく歩いていると、少し立ちくらみがした。
時刻は13時過ぎ。朝から何も食べていなかった光里は、ある店にやってきた。
こぢんまりとした小さな町の中華屋で、学生時代に付き合っていた彼氏とよく通った店。
― あの時のままだ…。
店主もメニューも雰囲気もそのまま。中へ入ると、昔よく食べた天津飯を頼んだ。
笠原の件があってから、ずっと食欲がなかった。
笠原のことは、光里が久しぶりに好きになれると思えた相手。
それなのにあんな裏切られ方をして、悔しさと悲しみで胸が締め付けられる。
「はい、お待たせ」
店主の奥さんが、出来立ての天津飯を持ってきた。
少しすくって口に運ぶ。
「美味しい…。あの時のままの味…」
優しい味わいの温かい餡がふわふわの卵と溶け合い、光里の心と体にじんわりと染み渡っていく。
味の記憶が、学生時代の彼氏の記憶を呼び戻した。
同じ大学の1歳上の先輩。
バスケサークルだった彼とは、友人を通していつの間にか仲良くなり付き合った。
この店を教えてくれたのがその先輩。
友達といる時は男子高校生のように無邪気で、でもたまに見せる男気や、優しい包容力に惹かれた。
光里にとって初めて心から好きになった相手で、春の陽だまりのように温かく美しい恋愛だった。
けれど、光里が先に社会人になり、すれ違いが多くなる。その上、先輩が海外の博士課程に行くと日本を離れた。
それでも好きで関係を続けたが、先輩の帰国は未定だったし、自分も仕事が忙しくなり、将来が見えずに結局別れた。
それからずっと光里は、仕事に集中してきた。
恋愛はいつか壊れるかもしれない。けれどきっと努力は裏切らないと信じて。
それなのに…。
光里は急に先輩が恋しくなった。
大好きだった人に、大事にしてもらった記憶が次々と蘇る。
別れてからは、どこか頑なだった。
別れてまで選んだ今の仕事で成功しなければいつか後悔する。そんな気持ちもあった。
「先輩、今どうしているんだろう…?」
ずっと見まいとしていた先輩のSNSを探してみる。友人のフォローを辿っていくと、意外と簡単に探し当てた。
― 先輩だ!あの頃のまま…ううん、もっとかっこよくなってる…!
写真をあまり載せるタイプではなく、先輩の顔写真が載っているのは、最近友人たちと集まった時の一枚だけ。
帰国しているのか、結婚しているのか、それすらもわからない。
光里は思わずDMボタンを推して、メッセージを書く。
「お久しぶりです、光里です。元気…」
そこまで書いて光里は指を止める。少し考え、すべて削除した。
― 連絡するのは、今じゃない。
残っていた天津飯を丁寧に平らげると、支払いを済ませて店を出た。
先輩と戻りたいとか、そんなことを考えたわけじゃない。
ただ無性に懐かしくなった。
でも、弱っている今連絡をして、昔の大切な思い出を壊したくない。
「よし、もう一度頑張ろう。一から出直そう」
繋がろうと思えば、簡単に繋がれてしまう時代。だからこそ、タイミングは重要だ。
― もし連絡をするときは、もっと自分を誇れるようになってからにしよう。
懐かしい味に心が満たされた光里は、宝物の思い出を胸に、しっかりとした足取りで家へと向かった。
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この記事へのコメント
それなのにもっと頑張ろうと前向きになれた彼女は立派。
「一から出直そう」と思えた光里を応援したい!