笠原と一緒にいた彼の友人からは、「こいつ離婚して落ち込んでいるんだ」と聞かされていたので、てっきり独身だと思っていた。
そこから徐々に仲良くなり、連絡先を交換し、幾度かデートをする関係になった。
だがデートを始め2ヶ月が過ぎたある日、2人の関係を知らない仕事関係者から聞かされた。
「笠原さんってほんと素敵。仕事もできて奥様も美人でやり手で。理想の夫婦だわ」
光里は驚きつつ、悟られないように聞いた。
「あれ?笠原さんって離婚されたんじゃ…?」
「ううん。この間広尾のご自宅付近で、仲よさそうに歩いているのを見たよ」
何が何だかわからず、光里は半信半疑で笠原にLINEをした。
Hikari『笠原さんって、もしかして奥さんとまだ離婚してないんですか?』
数時間経っても既読にならない。不安でその日は仕事に集中できなかった。
返事が来ないまま2週間が過ぎ、どうやら彼からブロックされていることに気がついた。
それが3ヶ月前の出来事。
唯一の救いは、体の関係がなかったこと。
だから「忘れて何もなかったことにしよう」と思っていたが、笠原妻にとっては違ったようだ。
どこで見られていたのか、彼女に光里と笠原がデートをしていたのがバレたらしい。
そもそも、笠原妻があの大手事務所のマネージメント部長などとは思ってもみなかった。
「プライベートに口出すつもりはないが、仕事が絡めば別だ。自分の行動に責任を持ちなさい」
「でも、笠原さんとはそんな関係では…」
そう言いかけて、口をつぐんだ。体の関係こそなかったが、勘違いされてもおかしくない。
事実デートをしていた時は、確かに恋愛感情があったのだから。
「とりあえず今回は降りてくれ。今後二度とないように」
そういうと、部長はため息をついて会議室を出て行った。
後から先輩に聞いた話では、笠原の妻はとても怒っていて、今回の件を白紙に戻すとまで言っていたが、部長が説得してなんとか収めてくれたという。
― そんな…。早く誤解を解かなきゃ…。
先ほどの名刺に連絡を入れるが、松坂光里だと名乗るとすぐに切られ、ブロックされてしまった。
事務所まで会いに行ったが、取り合ってもくれない。
「何でこんなことに…!」
今回のプロジェクトは光里にとって大きなチャンスで、誰よりも全力で取り組んでいた。
徹夜もしばしば、プライベートもすべて削ってきたのだ。
それなのに、こんな理不尽な理由でおろされたことに、納得がいかなかった。
その上、光里の不運はこれだけではなかった。
「あの子よ、例の奥さんいる人と…」
社内に噂が流れ、そんな声がこれみよがしに聞こえてくる。
生き甲斐であった仕事が急になくなり、職場は居心地が悪く、常に陰口を言われている妄想に襲われる。
だんだんと光里は闇の中に取り残されたような気持ちになった。
◆
『まもなく、西早稲田です。足元とホームドアにご注意ください』
土曜日の早朝。
母から急に「ネット予約をした『すずめや』のどら焼き、受け取りに行ってくれない?急用が入って」と電話があった。
仕方なく池袋に出向いた帰り、渋谷に向かう副都心線の車内で久しぶりに懐かしい駅名が聞こえた。
― そういえば、卒業以来だな…。
気がつくと、光里は電車を降りていた。
「うわー、懐かしい…」
大学時代に住んでいた時と変わらず、自然と表情がほころぶ。
あてもなく大学の周りを歩いてみる。土曜日だが、学生たちがちらほら見られ、昔の自分と重なった。
この記事へのコメント
それなのにもっと頑張ろうと前向きになれた彼女は立派。
「一から出直そう」と思えた光里を応援したい!