虎ノ門横丁にある店内は、賑やかな雰囲気でシンプルだが、木の温もりが心地よいカウンター席が並んでいた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
お店の人が笑顔で迎えてくれ、私はほっと胸をなでおろす。案内された席に腰を下ろすと、隣の席の男性と目が合った。
― こういう時って、どうするのがスマートなんだろう?
そんなことを思っていると、その男性から話しかけられた。
「もしかして、千夏さん?」
驚いて顔を上げると、どこか見覚えのある顔に黒縁メガネ、すっきりとしたスーツ姿。
「あ……」
彼は、昨年の夏頃に共通の知人の食事会で出会った男性だった。
すぐ思い出せなかったのは、その時私には別れるか別れないかで、大いに揉めていたモラハラ彼氏がいたからだろう。
「僕のこと、覚えてますか?寺西です。寺西直樹」
「あ、直樹さん!そうだ。お久しぶりです〜」
本当のことを言うと名前は覚えていなかったが、なんとか笑顔で誤魔化した。
「偶然ですね。実は今日、一緒に来るはずだった人にドタキャンされちゃって…もったいないから、ひとりで食べに来ました」
「そうなんですね。実は私は、そういうぽっと出たキャンセルを狙ってまして。今日はソレで来れたんです」
私が言うと直樹は目を丸くしてから笑った。それにつられるように私も声を出して笑ってしまう。
「わぁ…これがウワサのウニ・オン・ザ・煮玉子!美味しそう〜!」
「もしかして、千夏さん初めて食べる?」
「はい!五反田の方も行ったことなくて…」
「おっ。そうなんだ。めちゃくちゃ旨いよ!どうぞ召し上がれ。って僕が作ってないけど」
私は直樹に軽くツッコミを入れてから、煮卵を口に運んだ。濃厚な旨みが口いっぱいに広がる。
「ふわぁ…美味しい」
私が漏らすと、直樹は満足そうに微笑んだ。
今日はひとりゴハンのつもりだったから、こうやって料理の感想を言い合いながら食事を楽しめるのは最高に嬉しかった。
直樹のことも、前回は彼氏がいたからそういう目で見ていなかったが、話していて楽しいし会話の間合いも声も全てが心地良い。
「直樹さん…よかったら、この後もう一軒どうですか?」
私はお酒の力を借りて誘ってみた。けれど、直樹は申し訳なさそうな笑顔を見せる。
「ごめんなさい。僕、彼女がいるんです」
「そっか。ですよね!じゃあ…ここでもう一杯付き合ってもらえますか?」
私は努めて明るく笑い、グラスを持ち上げると直樹は「もちろん」と、グラスを合わせてくれた。
彼はきっと誠実で真っ直ぐな人なのだ。だから、好意を持たれていると気づいた時点で、きちんと線引きをしたのだろう。
― そんなところもかっこいいな…。
そう思ったが、私は目を伏せた。直樹の誠実さを尊重するのなら、好きになってはいけないと。だから、その日は連絡先を聞かずに帰った。
この記事へのコメント
ご縁のある人とはなぜか偶然会うんだよね、不思議と。
そして煮卵の写真がめちゃくちゃ美味しそうで。雲丹というよりこぼれいくらがどっさりで今すぐ食べたいーーー。
最初、千夏から誘ってみるのもとても良かった!