2024.04.11
離婚カレンダー〜夫婦の正しい終わり方〜 Vol.1「えっ?部屋ってなんのための?」
光朗からの唐突な報告に、楓の声は意図せず裏返った。
「あはは。なんて声を出してるの」
あまりにも仕事が忙しいため、オフィスの近くに部屋を借りた。そうすれば、ちょっと休憩時間に休んだり、また遅くなる時は泊まったりすることもできる…と、光朗はさらりと理由を説明する。
「そんなに忙しいの?わざわざ部屋を借りるほど?」
確かに、最近仕事が忙しいようで、帰ってくるのは21時以降になることがほとんどだ。
「心配しなくていいよ。40越えたあたりから、体力衰えてさ」
部屋をもう一つ借りるくらいなら、はじめからオフィスの近くに住んでも良かったのに。と、楓は思う。
光朗のオフィスは有明にあり、自宅を購入するときにはベイエリアも候補に挙がったのだ。けれどその時、「もっと娘の教育環境がいい場所に住もう」と提案したのは、光朗の方だった。
仕事で疲れている光朗を、追い詰めたい気持ちは微塵もない。楓は、ふと思い出したそんな経緯を振り切ると、ねぎらいの言葉をかけた。
「わかった。体の方が大事だもんね!無理しないで頑張って」
◆
サツキの花が咲き誇る、5月の公園の帰り道。
花奈にぎゅっと手を掴まれて、楓は我に返った。
「ねえ、ママってば!パパって今日帰ってくる?」
「うーん、どうだろう。パパ、お仕事忙しいみたいだから、お家帰ったらLINEで聞いてみようか?」
1ヶ月前の夜、「部屋を借りた」と報告を受けて以降、光朗は明らかに変わった。
しばらくは、2日に一度程度のペースだった帰宅は、いつのまにか3日に一度に。次第にさらに間が空いていき、今では週末に帰ってくればまだまし、というレベルになっている。
それでも最初の方は、LINEのやりとりも今までどおり頻繁にあった。いや、頻繁というのは楓からのLINEであって、それに対しての返信がちゃんと返ってきたという意味だ。
そして、今日は土曜日なのに、光朗は自宅にいない。
花奈と2人の休日を持て余した楓は、近所の公園を散歩しカフェに立ち寄り帰る途中だが、心がざわざわとして落ち着かなかった。
― 3日前に送ったLINE、返ってこなかったし…。どうしたんだろう?
電話をしても、出たためしがない。
妻には言えない悩みがあるのかもしれない。不安がない、といえば嘘になる。
― もしかしたら、私に言えない重病が見つかったとか?
― 仕事がうまくいってないとか?
あらぬ妄想が次から次へと湧き上がる。
「はぁ…」
深いため息をついた時、背後からポンと肩を叩かれた。
「やだ、大きなため息。幸せ逃げちゃうよ?」
振り向いた先にいたのは、楓の5歳下の妹・麻美だった。「遊びに行く」という連絡を昨日もらっていたことを、すっかり忘れていた。
慌てて麻美を家へと招き入れた楓は、急いでロイヤル コペンハーゲンのカップを取り出し、コーヒーマシンにカプセルをセットする。
「コーヒーでいいよね?」
けれど、その問いに答える前に、麻美は無邪気に尋ねてくるのだった。
「あれ、お義兄さんはお仕事?」
「あ、うん…」と口ごもっていると、花奈が横から口を挟んだ。
「ねえ、ママ、パパにLINEは?いつ帰ってくるか聞いてよ」
花奈の様子を見て、麻美は察したようだ。
「なに?お義兄さん帰ってきてないの?出張…とか?」
「う、うん…それが…。花奈、Netflixでも見る?」
楓は娘に配慮すると、1ヶ月前からの経緯を麻美に打ち明けはじめるのだった。
「実は…1ヶ月前に仕事の休憩用に部屋を借りてから、わざわざ帰ってくるのが面倒になっちゃったみたいなの」
「面倒って。たかだか有明からここまでって、車で40分もあれば着くけど」
麻美の指摘に、楓の心は鬱々と沈んでいく。
「何かあったのか心配なんだけど、電話もでなくて…」
「お姉ちゃんって、能天気というか。なんというか…」
何か言いたげな妹から目線を逸らした先のテーブルの端に、朝とってきた郵便物の束が放置されていた。楓は、それを引き寄せ、無言でダイレクトメールや封書を仕分ける。
「だって、疑う理由がないんだもん。仲良くやってたし…。本人と話せてないし」
これは楓の本心だった。
けれど、次の瞬間。楓はふいに手を止めた。
手にした封書に、「楓へ」という表書きがあったからだ。
そしてその字体には、見覚えがあった。
「これ…」
封書を手にフリーズしている楓に、麻美が気づく。
楓は手に持った封筒を指でこじ開けるように開封し、中身を取り出し、開いた。
途端、楓の頬につーっと一粒の涙が流れ落ちる。
「お、お姉ちゃん、大丈夫?」
おろおろとしながら問いかける麻美の声が、遠い。
「どうして…?」
そう小さくつぶやきながら楓は、愛する夫の名前がすでに書き込まれている緑の紙──離婚届を、まじまじと見つめた。
何の相談も無しに「有明に部屋を借りたんだ、事後報告で悪いんだけど」って。そこで何となく楓も怪しいと気付かないきゃ。 仕事が上手くいってない?重病? とか随分おっとり構えてるなと。
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