東京、桜の下で Vol.1

東京、桜の下で:「あなたのために、海外赴任は断る」29歳女の決断に、彼が見せた反応は…

2日後。

今日はドタキャンせずに帰宅してくれた大聖と、食卓で向かい合う。

ビールで乾杯してしばらく経ってから、沙織はさっそく切り出した。

「あのね。一昨日、シンガポールに赴任しないかって、打診されたの」

「へえ」

大聖はそう言って、だし巻き卵をつついている。

― なんだか、全然興味なさそう。

不満に思いながらも沙織が、「でも大聖とのこれからを優先したいから、断るつもり」と言いかけた、そのとき。

大聖は、テレビをじっと見たまま言った。

「シンガポールの外食って、最近すごくレベル上がってるらしいよ。よかったじゃん」

― よかったじゃん?

沙織は、箸を持ったまま固まる。

「でも断ったんでしょう?」とか「俺と一緒にいてほしい」とか、そういう言葉を期待していたのだ。

「あの街は過ごしやすいよ。いい赴任先じゃん」

そう言うと大聖は、ようやく目を合わせてくれる。

「…で、でも、行くってなったら私、いつ帰ってくるかもわからないよ?さみしくない?私が海外に行っちゃったら」

― 遠距離恋愛なんて、私たちにできる?それとも…別れてもいいと思ってる?

心の中にあふれる疑問は、次の大聖の一言ですべて解決された。

「まあ、帰ってきて、お互いにタイミングがよかったら、また付き合おうよ」

大聖は軽く笑って言った。

そして更には、「じゃあ、この美味しい卵焼きともお別れか」と冗談めかしたのだった。

沙織は、全然笑えない。

「もういいよ」

立ち上がり、バッグを抱える。

「なに急に」と、大聖は驚いた表情だ。


パンプスを鳴らして部屋を飛び出し、マンションのエレベーターに乗り込む。

大聖は、追いかけてこない。

夜風にあたりながらアークヒルズの坂道を下っていると、悲しみが一気に押し寄せてきた。

― 私だけだったんだ。

歯をくいしばる。

沙織は思った。

― 結婚したいとか、ずっと一緒にいたいとか、思ってくれてなかったんだな。

自分だけが、人生設計に彼を入れていたわけだ。大聖にとって自分は、単なる便利な女にすぎなかったのだ。

なんだか力が抜けて、道沿いにあった木製のベンチに腰掛ける。

煌々と光るタワーマンションを見上げると、大聖と過ごした、たくさんの楽しかった思い出が蘇った。

涙が止まらない。実らなかった思いが、たくさんありすぎる。


22時すぎの、アークヒルズの下。 沙織は、今にも咲きそうな桜の蕾を見つめ、涙をぬぐった。

どれだけ泣いただろうか。

人通りも随分と減って、ようやく涙が引いてきた頃。ようやく、桜の木の枝々をじっくりと見つめることができた。

目を凝らすと、枝にはたくさんの蕾がついている。

若々しい蕾。

ひとつひとつが、ぷっくりと膨らんでいる。

「これから、咲くんだね…」

沙織は濡れたまぶたをハンカチでおさえながら、蕾に見入る。そして、その姿を、今の自分自身に重ねた。

「私だって…」

29歳なんて、まだまだ、これからだ。

ここで折れるのではなく、自分らしく咲かなくては。そう思ったのだ。

― 明日、上司に返事をしよう。シンガポールに行かせてくださいって。

彼を支えるだけの人生は、終わりだ。ここからは、自分が主人公になる。そう決意した沙織は、心のうちにみなぎるものを感じ始めた。

いまにも咲きそうなぷっくりとした蕾が、笑いかけてくれているように思えた。


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この記事へのコメント

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No Name
すごくいいタイミングだったと思う!シンガポールでの生活も読んでみたかったけどこちらは一話完結なのね。
2023/03/10 05:3185返信1件
No Name
「この卵焼きともお別れかっ」て、その言葉が大聖の気持ちをよく現してる。基本外食中心だから(飲食系の経営者か?) 週の何日かは手作りな食事を食べたくて、沙織は呼べばすぐ来るコンビニエントな女性でしかなかった。
2023/03/10 05:4877返信4件
No Name
沙織に幸あれ。次週予告の、大切にすれば良かったと桜の下で嘆く男が大聖だったら、鼻で笑ってしまうかも。
2023/03/10 05:3750
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