2日後。
今日はドタキャンせずに帰宅してくれた大聖と、食卓で向かい合う。
ビールで乾杯してしばらく経ってから、沙織はさっそく切り出した。
「あのね。一昨日、シンガポールに赴任しないかって、打診されたの」
「へえ」
大聖はそう言って、だし巻き卵をつついている。
― なんだか、全然興味なさそう。
不満に思いながらも沙織が、「でも大聖とのこれからを優先したいから、断るつもり」と言いかけた、そのとき。
大聖は、テレビをじっと見たまま言った。
「シンガポールの外食って、最近すごくレベル上がってるらしいよ。よかったじゃん」
― よかったじゃん?
沙織は、箸を持ったまま固まる。
「でも断ったんでしょう?」とか「俺と一緒にいてほしい」とか、そういう言葉を期待していたのだ。
「あの街は過ごしやすいよ。いい赴任先じゃん」
そう言うと大聖は、ようやく目を合わせてくれる。
「…で、でも、行くってなったら私、いつ帰ってくるかもわからないよ?さみしくない?私が海外に行っちゃったら」
― 遠距離恋愛なんて、私たちにできる?それとも…別れてもいいと思ってる?
心の中にあふれる疑問は、次の大聖の一言ですべて解決された。
「まあ、帰ってきて、お互いにタイミングがよかったら、また付き合おうよ」
大聖は軽く笑って言った。
そして更には、「じゃあ、この美味しい卵焼きともお別れか」と冗談めかしたのだった。
沙織は、全然笑えない。
「もういいよ」
立ち上がり、バッグを抱える。
「なに急に」と、大聖は驚いた表情だ。
パンプスを鳴らして部屋を飛び出し、マンションのエレベーターに乗り込む。
大聖は、追いかけてこない。
夜風にあたりながらアークヒルズの坂道を下っていると、悲しみが一気に押し寄せてきた。
― 私だけだったんだ。
歯をくいしばる。
沙織は思った。
― 結婚したいとか、ずっと一緒にいたいとか、思ってくれてなかったんだな。
自分だけが、人生設計に彼を入れていたわけだ。大聖にとって自分は、単なる便利な女にすぎなかったのだ。
なんだか力が抜けて、道沿いにあった木製のベンチに腰掛ける。
煌々と光るタワーマンションを見上げると、大聖と過ごした、たくさんの楽しかった思い出が蘇った。
涙が止まらない。実らなかった思いが、たくさんありすぎる。
22時すぎの、アークヒルズの下。 沙織は、今にも咲きそうな桜の蕾を見つめ、涙をぬぐった。
どれだけ泣いただろうか。
人通りも随分と減って、ようやく涙が引いてきた頃。ようやく、桜の木の枝々をじっくりと見つめることができた。
目を凝らすと、枝にはたくさんの蕾がついている。
若々しい蕾。
ひとつひとつが、ぷっくりと膨らんでいる。
「これから、咲くんだね…」
沙織は濡れたまぶたをハンカチでおさえながら、蕾に見入る。そして、その姿を、今の自分自身に重ねた。
「私だって…」
29歳なんて、まだまだ、これからだ。
ここで折れるのではなく、自分らしく咲かなくては。そう思ったのだ。
― 明日、上司に返事をしよう。シンガポールに行かせてくださいって。
彼を支えるだけの人生は、終わりだ。ここからは、自分が主人公になる。そう決意した沙織は、心のうちにみなぎるものを感じ始めた。
いまにも咲きそうなぷっくりとした蕾が、笑いかけてくれているように思えた。
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