『大聖:今日むりになったわ。お客さんと飲みにいく』
― またこのパターンか。
『沙織:了解。いってらっしゃい!』
気丈に返事を打ちながらも、ため息をもらした。
付き合いはじめた頃は、こんなふうではなかったと沙織は思う。
急な予定変更で帰りが遅くなったり、今日のように手料理が不要になったりすることは確かにあった。
しかし、前の大聖なら「ごめん」の3文字は欠かさずに送ってくれたし、丁寧に電話でフォローもしてくれていたはずだ。
― 一体、いつから…。
たった1年の間に、大聖からの扱いが雑になっていることを認めざるを得ない。
しかし沙織は、こう解釈するようにしていた。
対応が雑になったのは、大聖が自分に気を許した証拠だ、と。
― 1年も一緒にいたら、家族みたいになるもん。別にそれは、悪いことじゃないよね。
「いただきます」
広い部屋に、沙織だけの声が響いた。
◆
翌日のランチタイム。
沙織は、デスクで昨晩と全く同じ料理を食べていた。
ドタキャンされた翌日は大聖の分の料理を、翌日のランチとして持参するのが恒例なのだ。
「ごめん、多部さん。ちょといい?」
そのとき突然、上司から声をかけられた。
「お昼休みに悪いんだけど…食べ終えたら、声かけてくれませんか?」
「は、はい」
掻き込むようにランチを終えて上司に声をかけると、会議室へと連れていかれる。
「多部さんに、話があるんだけど」
上司は、眼鏡の奥で柔和に微笑む。
「なんでしょう?」
沙織は、背筋を伸ばした。
「多部さんって、入社してからずっと『グローバルな仕事がしたい』って言ってたよね?
ちょうど今ね、会社の方針で、入社10年目くらいの社員数名をシンガポールに赴任させようって話があるんだ」
確かに沙織は「いつかは海外を舞台に働きたい」と、上司に幾度となく伝えてきた。
「多部さんは優秀だし、シンガポールでもっと経験を積んでもらえればと思うんだけど…どうかな」
上司は、穏やかな口調で付け加える。
「でも多部さん、最近は忙しいのかな?事情もあるだろうから断ってくれても構わないけど…検討してみて」
定時退社を厳守するようになった沙織を、上司も不思議に思っていたに違いない。
上司は「1週間くらい考えてみてください」と言って、会議室を去っていく。
― どうしよう…。
デスクに戻った沙織は、思い悩んだ。
念願だった、海外赴任のチャンス。
ありがたいことに、上司が背中を押してくれている。本来なら喜んで受けるべきだろう。
迷っているのは、大聖がいるからだ。
― 私が海外に行ったら…大聖はさみしがるよね?
そしてなにより、この年齢で海外赴任などしたら、婚期を逃しかねない。それが本音だった。
今の大聖からの扱いに、不満がないとは言い難い。
それでも、仕事ができて、身に余るような贅沢をさせてくれる彼は、どこまでも魅力的だった。
― 私、大聖と結婚したいと思ってる…。
そう強く思うけれど、この1年、2人の間で結婚というワードが話に出たことはない。
だからこそ、沙織は決意する。
東京に残ろう。そして大聖に、「大聖との未来のために東京に残ると決めた」と話そう。
― そしたら大聖だって、真剣に将来の話をしてくれるよね?
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