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結局、終電に近い時刻まで店にいた。
味気のない『ご報告』メールをとがめるつもりが、生産性のない話に終始し、恐らく最後であろう夜があっさりと終わりを迎えようとしている。
「まぁ、俺らも色々あったけど、お疲れ様」
ずっと頭の片隅にあったからだろうか。健太郎は、お会計を支払い終えたところで不意にそんな言葉を漏らしてしまった。
「色々?」
翠はそれを聞き逃さなかったようだ。
健太郎はパンドラの箱があいたような感覚をおぼえた。酔いは一気に醒めた。
「え…あ、色々だよ」
「あの夜のコト、本当に忘れているの?私はずっと心に引っかかていたのに」
健太郎の瞳を、翠ははっきりと捉えている。
しばらく訪れる沈黙。
彼女は、その答えを待つことができず、途切れがちに声を絞った。
「あの夜ね、私、健太郎の彼女になれるのかなって、思ったんだよ。誘ったのは私からだけど、受け入れてくれて本当に嬉しかった」
「え、そうだったの?」
「本当に忘れてたんだ。最後だから言う。健太郎のこと、好きだったよ」
晴れやかな翠の笑顔。
愛らしくて、思わず抱きしめたいと思ってしまう自分がいた。
― いや、ずっと抱きしめたかったのかもしれない。
「な、なんだよ、最後の最後に」
「だから、最後だからって言っているじゃない。気まずくなりたくなかったから。あのことがあって、数日間、顔合わせるの辛かったもの」
重たい雰囲気に耐えられずに健太郎は、翠の告白を乾いた笑いでごまかそうとする。
けれど、その直前でハッとした。
あの時もそうだった。翠と一夜を共にしてしまったあとも、気まずさのあまりごまかしたのだ。
結果、火種をずっと燻らせたまま、今に至る。
このままではいけない。
― 翠のことが大切だから。ずっと一緒にいたかったから、俺は逃げていたんだ。
ふいに、どっと後悔が押し寄せる。しかし、何と言っていいのかわからなかった。
「い、いや……だって気まずいさ!それにさ、セクハラとか、そういうのを強要された!とか言われるんじゃないかってビクビクしてたし」
結局、いつものように健太郎は笑う。翠なら、きっとそのノリに合わせてくれるだろう。そう信頼しながら。
「…」
「でもよかったよ。俺も──」
『翠のこと、いいなと思ってる』。そう告げようとしたが、ためらった。
彼女の不機嫌な視線が、相変わらずのそれとは違う、さらに違うものになっていたから。
「健太郎のそういうところがね、やっぱ無いな、と思ったところ」
「え…」
翠は、軽蔑の視線を健太郎に送っている。
そういえば、彼女は「好きだった」と過去形で言っていた。
今は違うというのだろうか。
「やっぱ無い?」
「うん。健太郎はいつまでたっても健太郎だね。逃げてばかり。
まぁ、こうしてまだお酒を酌み交わせる友達のままではいられるから、結局のところはこれで良かったかもね。神戸に出張の時は気軽に遊びに来てよ」
店を出る彼女を追いかけながらも、健太郎は話を続けようと試みた。
「え、え…ちょっと待って」
「じゃ、気をつけて。バイバイ」
翠は颯爽と、大通りでひとりタクシーに乗り込んだ。
静かな夜闇にタクシーのテールランプが吸い込まれていく。
もうすでに終電はなくなってしまっている。
タクシーに飛び乗って翠を追いかけることはできたはずだけれど、これ以上、翠に軽蔑の眼差しを向けられるかと思うと、どうしても足が動かなかった。
すっかり見えなくなったテールランプをじっと見つめながら、健太郎は走馬灯のように過去を振り返る。
翠のことを特別に思っていたのに、どうしてごまかしてばかりだったのか。どうして最後の夜を、セクハラなんて言葉で茶化してしまったのか。
他人行儀に送られてきた『ご報告』のメールが、改めて健太郎の胸を抉る。
― 最後まで、素直じゃないんだな。
まだ肌寒い中帰り道を歩きながら、健太郎は心の中で呟いた。
その言葉は彼女ではなく、ほかでもない、自分へ向けてのものだった。
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この記事へのコメント
ただ、多分だけど翠の事は友人として好きだけど彼女にしたいとまでは思ってなかったのかもしれない。他の女性とも付き合ったりしてたみたいだし。最後に好きだったと言われて、急に失いたくないと思ったようにも解釈できた。