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「そうよ。大学の時の同級生が、地元で起業するからって誘ってくれたの」
「大学の友人の地元って」
「そう、神戸」
原宿の『大衆酒場 BEETLE』のコの字カウンターに横並びで座った翠は、『ご報告』を見て慌てて連絡してきた健太郎に向かって、あっけらかんとそう告げた。
「起業って、そんな無謀な。大学の同級生って同い年くらいの女の子だろ。そんな甘い話じゃないよ」
「いやいや。灘の酒造をプロデュースしたり、兵庫テロワールに関連した観光誘致の仕事なんだけれどね。何年も前から準備していたことを知ってるから、健太郎が思うような甘い意識でやっていないはず」
そう言いながら翠は、眉間にしわを寄せて菊正宗を冷やで飲む。
不機嫌そうな横顔はいつものことだ。
「いや、でも」
「『でも』って?同期の友人の旅立ちを快く送り出すことはできないの?」
奈良美智の描くイラストの女の子に少し似ている、小柄で小動物のような雰囲気の彼女。
たまに見せる笑顔が可愛らしいが、ちょっと口が悪くて意地っ張りな翠と健太郎は、正直なことを言いあえる間柄だ。
サシ飲みはいつも大衆酒場で。
健太郎に恋人がいるときも、相手が翠なら何故か許されていた。
「あ、もしかして、報告が一斉メールで気に食わなかったの?」
「そうだよ、俺に対して失礼じゃないのか」
「やだ、拗ねちゃってるんだ」
翠は健太郎の肩を叩いて、その本音を茶化した。
「うるさいよ」
笑いあい、退職の話に一段落ついた先は、いつも通りの同期のうわさ話や上司の愚痴。加えて、最近行った美味しい店のことなど、他愛もない話に流れた。
気づけば、アルコールも進んできている。
翌日は休日。タクシーでも帰ることのできる距離にお互いの家はある。
もうこんな機会は少なくなるのだからと、健太郎は翠と時間を気にせず過ごすことを心に決めた。
― そういえば、あの時も、こんな感じだったな。
◆
翠の異動が決まった夜。
健太郎は、個人的な送別会と称して彼女を誘った。
思いのほか話が盛り上がり、目が覚めると、翠の住む代々木上原のマンションの部屋にいた。詳細は覚えていない。
「また飲もうな。気軽に誘ってよ」
彼女の家からほど近くにある『ブーランジェリー&カフェ マンマーノ』で気怠いブランチを取り、駅で見送ってもらったあとは、交際することもなく現状維持となった。
結局、異動後もたまに誘って何度か食事したけれど、その時の話題は一切出ないし、お互い出そうともしない。
タブーというわけではないが、気が合うからこその暗黙の了解のようなものだ。
しかし、健太郎の心の中にいまだにその時のことがこびりついて離れないのは、れっきとした事実だった。
この記事へのコメント
ただ、多分だけど翠の事は友人として好きだけど彼女にしたいとまでは思ってなかったのかもしれない。他の女性とも付き合ったりしてたみたいだし。最後に好きだったと言われて、急に失いたくないと思ったようにも解釈できた。