2022.09.09
タクシー・ドライバー 〜柊舞香〜 Vol.1
「今夜の飲み会が『つまらない』とおっしゃいましたが、ではお客様は何をしているときが楽しいですか?」
舞香の問いかけに、優吾はとにかく本音で答えようとした。
「…ないです。最近は何しても楽しくないです」
「そうでした。たしかに『仕事も私生活も充実しているが刺激がない』とおっしゃってましたね。でも…本当に刺激がないですか?」
「…え?」
「東京は刺激に満ちていると思います。特に港区は」
「体験すればわかりますよ。港区で得られる刺激なんて案外つまらないものです」と優吾は返そうとしたが、港区女子だったという舞香を前にして口をつぐんだ。
「柊さんはどうでした?」
「私?」
「刺激に満ちた港区で遊んでいたのに、どうして『つまらない』と思うようになったんですか?」
「私自身がつまらない人間だったからです」
タクシーは西参道を通過し、都庁が見え始めた。
舞香は話を続けた。
「港区女子として遊んでいた時期、私、失恋したんです。それがきっかけで生活すべてが、つまらなくなってしまいました」
舞香は、まるでさっきまでの優吾のように、自分語りを続ける。
「好きだった人以上の男はどこにでもいます。でもあの人と一緒にいたとき以上の自分が見つからないんです。あの人を失って、私は、つまらない人間になりました」
舞香は、小さくため息をつく。
「私自身がつまらない人間になったから、港区での飲み会もそれ以外の私生活も、何もかもがつまらなくなったんです」
「…もう、この辺で」
新宿中央公園に差し掛かったところで優吾は言った。
「西新宿まで、あと少しですが?」
「いえ、ここでいいです。降ろしてください」
優吾は、なんだか心苦しくて、すぐにでも夜の空気を吸いたくなったのだ。
会計を済まして降車すると、舞香のタクシーはあっさり走り去っていった。
時刻は22時前。あたりはしんと静まり返っている。
― さっきまでの“ウソなし”の車内での会話が、まるでウソのようだな…。
西新宿の自宅マンションに向かって歩き出すと、足がフワフワと浮いているような感覚がした。
― たしかに、あの運転手さんの言っていたとおりだ…。
舞香の言葉で気づかされた。
― 本当に『つまらない』のは今夜の飲み会じゃなくて、俺自身だったんだ…。
気づかないフリをしていたが、心のどこかでずっとわかっていた。
あの日以来、優吾はつまらない人間になった。
きっかけは、偶然にも舞香のそれと一致していた。
プライベートも仕事もつまらないと感じるようになってしまったのは、失恋がきっかけだったのだ。
大学2年生のとき、バイト先で知り合った2歳年上の麻美と付き合った。
交際期間は5年にも及び、彼女は結婚を望みはじめた。でも当時の優吾は、まだ覚悟ができなかった。
― このまま現状維持で楽しく過ごせばいいじゃん。
気楽な気持ちでそう思っていたのだが、麻美には通用しない。ある日突然、別れ話を切り出される。
必死になって「結婚する意志はある」と粘ったものの、もはや麻美の気持ちが戻ってくることはなかった。
東京ではそこらじゅうに転がっているようなエピソードだろう。
けれど、優吾の心は深く傷ついた。
凡庸な失恋で傷ついている自分が恥ずかしくて、誰にも本音を言えずに今日もひとりで抱えていた。
― あの運転手さんになら話せたのかもしれないな…。
タクシーを降りたあとになって、優吾は後悔する。
不意に立ち止まり、スマホを手に取ってLINEを開いた。探したのは、5年前に別れた麻美のアカウント。
アカウントはまだ残っている。でもアイコンの麻美は…ウエディングドレス姿だ。
いつだったか、そのアイコンに気づいたときの衝撃は今でも覚えている。心臓が跳ねて頭が真っ白になった。
― でももう、麻美と連絡を取るわけにはいかないもんな。
失った恋をいつまでも悔やみ続けて、自分を諦めてきた結果、つまらない人間になってしまった。
それに内心気づいていながら、周囲のせいにばかりしていた。
優吾は翔也とのトーク画面を開くと、飲み会を途中退席した非礼を詫びる。
『嫌じゃなければ、また俺のこと誘ってほしい』
秒速で既読がついて『OK』というスタンプが返ってきた。
憤っているはずなのに、翔也は何も気にしていないスタンスでいてくれる。その優しさが、身に染みた。
『面白いタクシー運転手さんと会ったから、今度、話をさせてよ』
優吾はそうLINEすると、ふたたび歩き出した。
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