
水ぬるむこの季節、雛の節句を祝う御膳に欠かせぬ食材といえば蛤。ちょうつがいをはずすと、同じ貝同士でしか貝殻が合わないことから、夫婦円満の象徴と考えられ、良き伴侶との出会いを祈って蛤を用いるようになったのだとか。折しも、産卵期を夏に控えて身が最も太る春は、まさに旬。貝特有の旨み成分であるコハク酸を多く含む蛤の旨さを、古代の人々もよくわかっていたようで、縄文時代の貝塚から発掘される貝殻のおよそ8割が蛤なのだそうだ。
日本人にとって蛤が、いかになじみの深い食べ物だったかがよくわかる。この貝の旨みを余すことなく味わうのなら「焼き蛤が一番!」。そう言いつつ、タドンの如き真っ黒な一品を手にしているのは、『ヌキテパ』の田辺年男シェフ。
貝が開いて中の汁がふきこぼれるのを防ぐため、ちょうつがいをはずして焼くのが田辺流。こうすることで貝の口は閉じたまま、旨みをとじこめ、蒸し焼きできるというわけだ。余熱で程よく火を入れた蛤は、開けた瞬間に広がる香気が見事。身を頰張れば、ジューシーな海のエキスがほとばしる。
これこそ春の海の美味しさだ。