東京エアポケット Vol.2

仕事を休んだ女は、都心のホテルへと向かい…。平日昼間にだけ許される、婚約者にも秘密の時間

迫られる人生の決断


プロポーズされた翌日。会議を終えた桃子は、部長から少し残るように言われた。

― なんの話だろう?

よくも悪くも心当たりがない。もしかして雅人との件が頭から離れず、心ここにあらず状態だったことを見抜かれてしまったのだろうか。

社会人7年目にもなって、プライベートのゴタゴタで仕事が手につかないなんて恥ずかしい。

緊張した面持ちで桃子が待っていると、部長が満面の笑みを浮かべながら、こう告げてきたのだ。

「今度、新しいリップクリームを販売するだろう。そのプロモーションの責任者を、浜野さんにお願いしたいと思ってるんだ」

「え、えっ!?」

予期せぬオファーだった。黙り込んだ桃子に、部長がすかさずフォローを入れる。

「浜野さんのこれまでの実績を評価してのことだ。不安かもしれないが、挑戦してみてほしい」

「ちょっと…。あ、えっと…」

雅人の転勤、プロポーズ、新規プロジェクトへのオファー。

人生を左右する大きな出来事が一度に降りかかり、ショート寸前だった桃子の思考回路は、完全に停止した。

― 大変なことになってしまった…。一度落ち着かないとマズイ。

そして桃子は、部長にこう申し出たのだ。

「新規プロモーションの件、光栄です。ただ、少しお時間をいただけないでしょうか」

「え?」

予想外の反応だったのだろう。部長は心配そうな表情を覗かせる。だが、すぐに「わかった。いい返事に期待しているよ」と、ほほ笑んだのだった。



「なんて美味しいんだろう…」

初めに登場したのは、蒸籠に入った美しい点心。

さっそく食べると、旨味の凝縮されたスープが一気に口の中へ広がった。うっとりするようなその美味しさに、思わず目をつぶってしまう。

「ふぅー」

今なら、冷静になって考えられる。桃子は自分が直面している問題をゆっくりと洗い出し、整理してみることにした。

まずは雅人の転勤。そしてプロポーズと仕事のオファー。考えられるシナリオを描いていく。

シナリオ1。プロポーズを受けて、雅人についていく。仕事は辞める。

シナリオ2。プロポーズを断って、仕事を引き受ける。雅人とは別れる。

「んー、ちょっと極端。雅人との結婚も、仕事も引き受けたい…」

続いて出された温かいスープを味わいながら、今度は優先順位をつけてみる。こんなことを繰り返しているうちにコースは終盤、気づけばデザートに到達していた。

「よし。もう大丈夫」

会計を済ませ、レストランを後にする。その頃には、桃子の心は決まっていた。


その夜。桃子はプロポーズの答えを伝えるため、雅人を部屋に呼び出した。

「プロポーズはお受けします。だけど…」

桃子は一呼吸つき、彼の目をジッと見つめながら続ける。

「仕事は続けたいの。だから当面は別居になる。これが、プロポーズを受ける条件」

そして、仕事で千載一遇のチャンスが訪れていることも併せて説明する。雅人は、時折「うーん」と声を漏らしながら、桃子の話を静かに聞いていた。

「この仕事を終えたときに、もう一度考えさせてほしいの。退職、転職、別居婚…。いろいろな選択肢があると思うから」

言いたいことはすべて言った。桃子は、雅人の答えをジッと待つ。

「…わかった」

そして彼は、ホッとした表情を見せながらこう続けたのだ。

「断られるんじゃないかって、ここ数日ヒヤヒヤだったんだ。桃子らしい答えだな。じゃあ、俺も条件出していいかな?」

一瞬、桃子は身構える。自分は条件を出したくせに、彼からも条件を出されるとは思ってもいなかったのだ。

「あんまり頑張りすぎないこと。今後は近くで見てやれないから心配で。それが守れないなら、別居は嫌だよ」

嫌という言葉とは裏腹に、雅人の表情は優しい。おそらく彼は、キャパオーバーになりがちな桃子を心配しているのだろう。

「わかった。絶対に守る。ありがとう!」

桃子は、雅人にギュッと抱きついた。

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