「綾香さん。ようこそ、いらっしゃいました」
その夜、綾香はパリ一つ星の名店『レストラン パージュ』を訪れていた。迎えてくれたのは、シェフ・手島竜司氏の妻・直子。
ここは、崇がパリに来るたびに通っていたレストランだ。ときどき店に出ている直子と崇は親交が深く、彼女は彼の最期を知る人物でもある。
「本当に惜しい人を亡くしたわ。情熱があって、勉強家で、日本から来るたび、会うのが楽しみだった」
表情豊かに思い出話をする直子に、綾香も顔がほころぶ。
鴨料理とともに、『SSS 2009』がサーブされる。このワインは、崇もお気に入りだったそうだ。
「この黒のワインボトルは…」
それは、拓真や一樹と一緒に飲んだワインと同じシリーズだった。
― こんな偶然って…。
『SSS 2009』の芳醇なアロマと果実感。メインの蜂蜜やスパイスを塗った鴨を口に含むと、それらはぴったりと寄り添うように一体化した。
『シャトー・ワイマラマ』が生み出した幻の1本とも言われ、パリのグランメゾンや高級鮨店の間で名を馳せている『SSS 2009』。
そのワイナリーが新しく生み出したワインが『SSS-Ⅰ 2018』と『SSS-Ⅱ 2018』だという。
― これって、もしかして崇が前に進むようにと言ってくれているのかな…。
時を超え、ワインを通じ、崇からのメッセージを受け取っているように思えた。
しかし―。
時折振動する綾香のスマホが、落ち着いた雰囲気に水を差す。
「旅行中なのに、連絡がよく来るのね」
からかうように直子が言った。
「実は…この旅行中に会った二人の男性に…」
気まずさから、綾香は拓真と一樹との出来事をつい口走ってしまう。幸い直子は、興味深げに聞いてくれた。
「でも、どちらも断るつもりです。明日でパリを発ちますし」
本当は、どちらにも惹かれている―。一方、まだ崇への想いもあるし、選べない。だからこその結論だった。
「それはどうかしら?彼が最期につぶやいていた言葉を思い出したわ」
直子はグラスを傾け、意味深に笑った。
「彼の最期の言葉…ですか」
「綾香さんの名前を叫んでいたわ。『幸せになって欲しい』って。結婚が近かったこともあるのでしょう」
初めて知る事実に、綾香は胸が締め付けられる。
「あなたが幸せにならなきゃ、彼が悲しむわ」
直子の言葉に、綾香の瞳からは大粒の雫が自然とこぼれ落ちていた。
「私、彼を言い訳にして。幸せになることから逃げていただけなのかも…」
すると、綾香の手を握って直子は言った。
「ワインも人も、人間関係も、時間が経つと味わいや深みも変わるわ」
綾香は崇のためにも、改めて前を向くことを決意するのだった。
◆
After 5 days
帰国後、綾香は、今まで以上に仕事に精を出していた。
結局、パリ5日目は、拓真とも一樹とも会わずに、日本に戻った。
だが現在、綾香は、二人と連絡を取り合っている。
今朝も、拓真とオンラインで会話してから出勤した。来月一時帰国する一樹とは、東京で会う予定だ。
今は決めかねているけど、明るい気持ちで前に進んでいるという実感はある。
パリで直子に、ワインと料理のマリアージュについて、ひとつ教えてもらった。
不完全な者同士が、一緒になることにより完璧になる――。
それがマリアージュ=「結婚」の本当の意味だと。
綾香は、完璧な自分じゃなくても、誰かと幸せになれることに気づかされた。
それに、ワインも、人間も関係も、時間が経つと風味も変わる。
幸せのマリアージュを完成させるには、もう少し時間をかけてもいいのかなと思う綾香だった。
Fin.
綾香がパリのレストランで飲んでいた『シャトー・ワイマラマ』のワインの詳細はこちら。
※SSSⅠ(アン)とSSSⅡ(ドゥ)につきましては、発売前の商品となります。