綾香が寂しげな理由。
それは、この街が婚約者だった崇の最期の地だから。
「未だに崇が亡くなったことが信じられないの。今もパリのどこかで取材を続けているんじゃないかって…」
綾香の元恋人は、世界を飛び回るジャーナリストだった。取材に訪れたパリで事故に遭い、2年前に帰らぬ人となったのだ。
「当時、崇とパリで会ったけど、仕事についていつも熱く語っててさ、男の俺から見ても、かっこよかったよ」
拓真と崇は大学の同級生で、二人は親友とも呼べる間柄だった。当時から3人でよく遊んでいたからお互いよく知る仲だ。
「私、崇が亡くなってから、何度も新しい恋に踏み出そうとしたんです。でも、心の中に彼がいつもいて」
拓真は、優しくうなずきながら綾香の話を聞いている。その様子に安心した綾香は、色鮮やかなアントレを食べながら続ける。
「気づいたら、私も29歳。このままじゃいけないと思って。自分の気持ちにけじめをつけるためにパリに来たんです」
「わかるよ。俺にとっても大切な友人だったから」
それから、拓真と崇の思い出を語り合った。
大学時代、初めて彼に会った時のこと。みんなでゴルフ旅行した日のこと。崇が綾香に告白した日のこと…。
エピソードの数々に自然と癒され、綾香は気持ちが整理されていくのを感じた。東京にいるときは、忙しくて彼との思い出に浸ることさえままならなかったから。
「無理に忘れなくてもいいんじゃない?」
メインディッシュの仔羊のフィレ肉と背肉が出てきたときに、拓真が言った。
「えっ?」
メインに合わせてサーブされた赤ワイン『SSS-Ⅰ 2018』を一口飲んでから、拓真は綾香の目を見ながら真剣な表情で話し始める。
「俺じゃダメかな?崇の代わりにはなれないけど…。綾香ちゃんが崇を好きっていう気持ちを含めて全部受け止めたいんだ…」
思いがけない彼の言葉に、綾香のフォークを持つ手が止まる。
「ごめん、突然でびっくりしたよね。でも、こんなときじゃないと言うチャンスもないから。ずっと、綾香ちゃんのこと好きだったんだ」
「今すぐに返事はいらないから。考えておいて」と拓真に言われてホッとする綾香。
それと同時にこれまでを振り返り、拓真の包み込むような優しさに、改めて気づかされる。
拓真は、大学時代から付かず離れずで綾香のそばにいてくれたよき先輩だった。
崇が亡くなって綾香が落ち込んでいたときも、遠く離れたところに住んでいるにもかかわらず、メールや電話で話を聞いてくれたことを思い出す。
それはまるで、今グラスの中にあるワイン『SSS-Ⅰ 2018』のようだ。
『SSS-Ⅰ 2018』は、ニュージーランドのワイナリー『シャトー・ワイマラマ』が生み出したオーセンティックな味わいのカベルネ・ソーヴィニヨン主体のワイン。
滑らかな質感、華やかな香りと多層的な味わい。それは、頼りがいある拓真の温かい人柄を彷彿させる。
「おいしい…」
綾香はワインを口にしてふとつぶやく。
ワインに合わせたメインディッシュの仔羊は、柔らかい食感ながらも味にとてもインパクトがある。バーベキューのように焼いたそのスモーク感に、ワインの多層性がマッチし、綾香の心にひとときの幸せをもたらした。
綾香は、自然と笑顔になる。
やっと出た綾香の嬉しそうな表情に、拓真もつられて微笑んだ。
◆
Day2
印象的なパリ1日目の夜が明け、綾香は、朝からパリ6区の大通りを訪れていた。
マロニエの並木が色づき、はらはらと落ち葉が石畳を染めている一角に崇の事故現場がある。
「崇、色々ありがとう。安らかに眠ってね」
綾香は花を手向けながら、崇に話しかける。しかし、答えが返ってくるわけではない。
― 崇をおいて、私だけ幸せになってもいいのかな?
昨夜の拓真からの告白もあり、そんなことをぐるぐる考えながらパリの街を歩き続けていた。
気がつくと、見知らぬ場所に来ている。
「ここ、どこ?」
うろたえていると、日本人らしき男性がこちらに向かって歩いてくるのに気がついた。
年齢は綾香の少し下くらいだろうか。個性的なデザインのジャケットを颯爽と着こなし、堂々とした佇まいが妙にパリの街並みに溶け込んでいる。
綾香は、その男性の元に駆け寄った。
「日本語わかりますか?すみません、道を教えていただきたいんですが」
声をかけると、その男性はパッと笑顔になる。
「もしかして…。新作アプリの広告案件でご一緒した綾香さん!?」