彼の名は
「今日は、柳井雪の30歳の誕生日で、入籍を約束した日だということだ。昨日、スマホにメッセージが入り、会いに行くと予告があったらしい」
その場にいた者は、誰も言葉を発しなかった。
女に不自由しないこの会社の男にはよくある話なのかもしれない。しかし、29歳の女と1年以上付き合い、結婚と駐在をほのめかし、彼女が会社を辞めたところで婚約破棄とは、いくらなんでもやりすぎた。
若いエリート男の驕りで済まされるようなものではない。
当然女は半狂乱になった。
しかし男は、ろくに話し合いもせず、着信拒否に、未読スルー。
私には、柳井雪の心が手に取るようにわかった。きっとはじめは、とにかく話したい、その一心だったはずだ。
一度は結婚を誓った仲なのだ。悪いところがあったのなら直すし、何か問題が起こったのなら、一緒に戦う。
だからとにかく、会って話したい。このまま終わらせるわけにいかない。
会社も辞めたし、親にも友達にも、エリート彼氏と結婚すると言ってしまった。何より、大好きなのだ。世界で一番、愛している男が、自分を無視するなんて、そんなことがあるはずがない。
何か理由があるはず。
それを聞くまでは、終われない。
自宅に行く。いつも不在。会社に行くしかない。玄関近くで待っていたけれど、どうしても会えない。取り次いでももらえない。社内の共用店舗名を訪問先に書いて、受付を通過しているOLを見た。やってみたらあっさり社内に入れたけれど、男のいる部署にはセキュリティゲートがあった。
次はどんな手を使ったら、あの人に会えるー?
「今回は、事前にブロックし、当該社員に接触する前に総務が対応します。万が一危害を加えるようなことがあれば、その時は警察を呼ぶかもしれません」
資料は全て回収され、私たちはあわただしく受付に向かった。
「まったく、そんなクズ男、私たちや会社がそこまでして守ってやることなんかないんじゃない?」
先輩たちがうんざりしたようにこちらを見た。
「まったく身から出た錆、自業自得ですよ。どうせ二股でもかけてて、もう一方のほうにしたんですよね」
私もうなずきながら、受付端末を立ち上げる。
どこの部署の、何という男か。
この会社の、若手で目立つ社員は、大抵顔と名前が一致する。できる男はそれだけ訪問客が多く、自然に覚えてしまうのだ。
今日のアジェンダの、機密情報のページにパスワードを入力したとき。
全ての血が逆流するような、毛穴から吹き出すような感覚があった。
取次禁止:鉄鋼部 坂上康太。不審客訪問時、即刻警備内線9999
「こう、た?」
思わずこぼれた声に、隣の同僚がちらりとこちらを見る。
坂上康太。私が来月、結婚する男の名前だ。
「これ、お願いします」
数秒か、永遠か。
固まっている間に、いつの間にか訪問客が私の前に立っている。
デニムにスニーカー、パーカーのフードをかぶり、リュックを背負っている。訪問先には、1階エントランスのコーヒーショップが記入されていた。
「…失礼いたしました、少々お待ちくださいませ」
奮える手で入館手続きをして、パスをお客様に渡そうとしたとき、「彼女」と目があった。
笑っても、悲しんでもいない。何も映っていない瞳。
いつの間にか、背負っていたリュックを下ろし、両腕に抱えている。強く組み合わされた指が白い。
「…お待たせいたしました。どうぞお入りください」
まるで自分の声でないような、私の声。止めるべきなのに、頭の芯がしびれて、うまく体が動かない。
彼女はにっこりと笑うと、落ち着いた足取りで、店舗ではなく、エレベーターホールに向かった。
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この記事へのコメント
でも、この後が知りたいな
その奥様を通してしまって受付の方が首になったとか。
受付の方からするととんだとばっちり。。