「幸せそうなおまえらを見てたらなんだか人恋しくなっちまってさ、ちょっと女と飲んでくるわ」
個室のソファの上で寝息を立てている可奈子と、漸く介抱を終えた僕を残し、顔を赤らめた友人たちは西麻布へと消えていった。
何度揺さぶっても微動だにせず深い眠りについてしまった可奈子にブランケットを掛け、僕は一人で飲み直そうと個室の外に出た。
このバーは看板もホームページもないパスコード付きの会員制で、仲の良い先輩が趣味で経営している信頼のおける店だ。
バーテンダー無しの完全貸し切りの場合に限り「好きに使っていいよ」と格安で場を提供してくれるので、気兼ねなく羽根を伸ばす為にこの場所を重宝している塾員は多い。
誰もいないバーカウンターで丸氷の入ったグラスにウイスキーを注ぎ、感慨に浸っていると突然扉が開いた。
「赤ワイン、ボトルでくださる?」
勢いよく現れたその女性に、僕は釘付けになった。呆然と立ち尽くしていると、不思議そうに顔を覗かれた。
「あれ?バーテンさんじゃなかったの?もう誰だっていいわ、良かったら1杯付き合って」
気は強そうなのにどこか寂しげで、パッと目を引くような黒髪白肌の麗しい女性だ。この辺で見たことがない顔だし、出会ったことのないようなタイプだった。
可奈子の、赤ちゃんのような柔らかな白肌とは異なり、ガラスの粉を混ぜたような冷ややかな透明感と、思わず触れたくなるような瑞々しく張りのある白肌。
黒髪といえば清楚系の代名詞だと思っていたのだが、彼女の黒髪は恐ろしい程艶やかで妖艶なオーラを放っていた。
「今日、貸し切りだったんですか?何かのパーティー?」
「ええ、まぁ。僕のお祝いで」
「あら、お誕生日?おめでとう」
物憂げな表情から一転、花が咲いたような笑顔に釣られ軽い気持ちでバーカウンターの隣の席に座った。
「誠一です。お名前は?」
「マシロです。真珠って書いてマシロ」
可奈子はお酒がほとんど飲めない為、女性と二人きりでボトルを開けるのは久しぶりのことだった。
真珠と名乗るその女は赤ワインをグイグイと飲んでいく。惚れ惚れするほどの飲みっぷりだった。
何かの拍子で肌が触れ合う度に不覚にもドキッとしてしまう。
彼女もきっと同じ気持ちだったのだろう。
気付けば僕の左腕と彼女の右腕がぴたりとくっつくほど距離が縮んでいた。その次に僕らの足が絡まるまで、それほど時間はかからなかった。
隣の部屋で婚約者が寝ているというシチュエーションが、いたいけな男心をくすぐる。
自分を俯瞰し「男ってバカだなぁ」と冷静に嘲笑しつつも、この状況を楽しんでいる自分がいた。
酔いが回ってきたのだろうか、お互いの体温が上がっているのを感じた頃、触れるか触れないかの最初の距離感が嘘みたいに、彼女は僕の肩に顔を乗せ、身体を預けてきた。
暫しの沈黙が流れた後、彼女はおもむろに顔を上げ、こちらを見つめた。
至近距離で視線が重なると、お互いの引力に吸い寄せられるように、僕らの唇も自然と重なりあってしまったのだ。
これは、先の見えるつまらない人生をそっと彩るささやかなアバンチュール。
それ以上でもそれ以下でもない。
一晩経てば夢のように儚く消え去る些細な出来事のはずだった。
しかし、今日この瞬間から僕の人生は大きく狂い始めることになる。そうなることを薄々予感しつつも、僕は自らの意思で過ちを犯した。
▶他にも:「ここまでは完璧!」歯科医の夫と自由が丘の家を手に入れた女の恐ろしい計画
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誠一と真珠の間に一体何が起こったのか…?
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