2020.09.03
溺れる男~理性と本能のあいだで~ Vol.1「誠一もついに、30歳で年貢を納めるのか」
「我が社が誇る好青年だからな、ファンが大勢泣いてるぞ」
「こんなに素敵な女性と結婚するなんて、さすがだよな」
ほろ酔いの友人たちが僕を茶化すと、可奈子は控えめに笑った。こんな時でも僕の後ろに隠れるように一歩下がって座り、ハメを外すことはない。
真夏の余韻が残るような夜だというのに、長袖の白いカーディガンのボタンを首元まで閉めているし、ストッキングを履いた華奢な足をぴったりくっつけて、姿勢を崩すことなく品良く座っている。
そんな5歳年下で現在25歳の可奈子との出会いは、縁談だった。
笑ってしまうのだが、僕は“慶應ボーイ”を具現化したような人間らしく、度々縁談を持ちかけられていた。
身長182cm、顔も育ちも文句無く、人当たりも抜群な好青年、小学5年生からラグビー部に所属しタイガージャージを着ていた生粋の体育会系。
どこに出しても恥ずかしくない、自信を持って紹介出来る一押しの優良物件というところだ。
社内の総合職から女優級の美女まで幅広く吟味し、正直女性に困った経験はなく、縁談はそれとなく断ってきた。
結婚を考えた女性もいたが、トレーニーとして東南アジアに赴任することになった際に「ニューヨーク駐在になったら結婚してあげる」と上から目線で言われ、僕が愛想を尽かしてしまったのだ。
日本に帰国後、そろそろ結婚を本気で考えねばと、親や親戚が持ってくる縁談相手の写真に目を通したものの、思わず苦笑してしまうような御尊顔ばかりで全く胸が高鳴らなず…。
そんな中、唯一輝いて見えたのが可奈子だったというわけだ。
蓋を開けてみれば両家の祖父母同士が学友だったり、両親も面識があったりで、全方位から背中を押される形でトントン拍子に話が進んでいった。
可奈子は三光町にある名門女子校出身で、初等科から大学までほぼ無菌状態で育った絵に描いたような箱入り娘。カトリックの教えを守り結婚まで処女を貫いており、今時珍しい超がつくほど清楚な女性だ。
それでいて小動物のように可愛らしい顔立ちをしており、性格も奥ゆかしく穏やかで世話好きで、まさに良妻賢母になり得るタイプだ。
結婚の教科書があるのなら、理想の妻像として参照されるべき完璧な相手だ。
僕の周りでは許婚がいることも縁談で成婚することも全く珍しいことではなく、恋愛結婚だとしても親が認めるような相手でなければ結婚は許されないという空気感がある。
“結婚と恋愛は別物”という認識なのだ。
そもそも僕は、胸が高鳴るような恋愛も、胸を締め付けられるような恋愛もしたことがない。
人を本気で好きになったことがない。
というか…“恋に溺れる人間は馬鹿だ”と思っている節がある。
僕の知る先人たちは皆、夫としての顔と父親としての顔と男としての顔を巧く使い分けて器用に生きている。
僕の父親だってそうだ。
家庭内の平穏を保つ為に義務のように週に一度は妻を抱き、妻にバレない程度に他所で欲を発散させる。それはいたって当たり前の風潮と化していた。
結婚向きの女性と結婚し、遊び向きの女性と遊べば良い。何ら難しいことではない。人生は驚くほど単純だ。
今までも、これからも、燦然と輝くレールを踏み外すことなく、器用に真っ直ぐに歩み続けるまでだ。
順風満帆な人生に惚れ惚れとしながらぼーっと可奈子を見つめていると、視線に気付いた彼女が耳元で囁いた。
「今夜は飲んじゃおうかしら」
可奈子はお酒がめっぽう弱く、僕とのデートでもめったにお酒を飲むことはないのだが、そんな事情を知らない友人たちに囃し立てられ、ショットグラスに口をつけた。
これが間違いだったのだ。
友人たちに可奈子を紹介したらとっとと帰ればよかったのに。
この1杯のテキーラが僕の人生を狂わすキッカケになるなんて、この時はまだ知る由もなかった。
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