2020.02.26
婚活ひとり飯 Vol.2「拓哉さんも、美咲の旦那様と同じ部署なんですか?」
「うん、そうだよ。この業界は移り変わりが激しい中、お互いよく頑張って残っているよなぁ」
テーブルを挟んで、私の向かいの席に座っていた拓哉さん。仔羊のローストにナイフをスッと入れる所作が妙に美しく、思わず見とれてしまう。
「俺らって、忙しい時は本当に忙しいんだよね。佳奈さんは広告会社だっけ?」
いかん、つい凝視してしまっていた。頭を切り替えねば。
「はい、そうです。私も繁忙期は…」
「なんかさ、日系って羨ましいよね。クビとかもないし」
「え?あ、そうですね、クビはないかもですが…」
さっきまで口の中に入れると溶けていくほど柔らかく感じていた仔羊が、急に口の中でズシっと重たくなった(ような気がした)。
「俺、結婚願望ゼロで。こんなにも必死に稼いだお金を、嫁に食いつぶされるとか御免だなぁと思っていて。佳奈さんは自立している感じがするよね」
私は無言でナイフとフォークをテーブルの上に置いた。
「佳奈さんって、強いでしょ?だからその年でも独身なんだよね?男もいらないし、“一人でも生きていけます!!”っていう無言のオーラが出てるもん。僕はそういう人、タイプなんだけどね」
紹介してくれた美咲には大変申し訳ないが、食事が終わる頃には、笑顔は完全に消えていたと思う。そしてすっかり疲れ果てた私の心は、まるで売れ残った干物のように乾ききっていた。
「二人でこのあと、もう一軒行かない?」
お店を出て、時計を見るとまだ22時半前だった。しかし拓哉さんからそう尋ねられて、面食らってしまう。どうやら彼は美咲たちとは別行動で、私と二人きりで飲むつもりらしい。
恵比寿駅の西口で周りを見渡すと、イチャイチャと肩を寄せるカップルや、楽しそうに盛り上がっている男女のグループ。そして女子会終わりなのか、キャッキャと笑い転げている女性同士など、皆とにかく楽しそうだ。
そんなにぎやかな恵比寿の街に久しぶりに来たというのに、気分はスッキリしないし、全然飲み足りないのは確かだ。いつもの私だったら勢いに流されて、二軒目まで付き合っていたかもしれない。
ーだけど…。
今日はひとりで飲みたい気分だった。
毎日会社で痛いほど感じる、好奇の視線や同情のまなざし。
『さすが仕事の鬼。あんな目にあったのにまったく気にしてなさそうだし、佳奈さんってほんとにたくましいよね』
後輩たちが陰でそう言っていることだって、本当は知っている。でも気づかないフリをして、現実から逃げるように仕事に打ち込んでいた。
だからこそ、せめてプライベートでは楽しみたい一心で、今日はここに張り切ってやってきた。だけど結局、初対面の男から心無いことを言われ、ただ疲弊して終わってしまった。
ー今だけは、誰にも気を使わずにひとりでゆっくりと飲みたい。
この時、無性にそう思ったのだ。
拓哉さんは、私が二軒目に行くのが当然と言わんばかりに、返事も待たずにスタスタと歩きはじめた。そんな彼の背中に向かって、きっぱりと告げる。
「今日はごちそうさまでした。私、ここで失礼します」
美咲にお礼を告げ、唖然としている拓哉さんにもぺこりと頭をさげると、その場を足早に立ち去った。
ーふぅ〜断ってスッキリした。さて、どこに行こう?
女ひとりで気兼ねなく入れるバーなんて、この辺りでは思い浮かばない。
頭をフル回転させて考えていると、不意にある店の存在を思い出した。
「そうだ。あそこなら…。今夜の気分にピッタリかも」
私は駅前の喧騒を抜け出して、うっすらとした記憶を頼りに歩き出したのだった。
◆
前に恭平が連れて行ってくれなければ、きっとその店の存在は知らなかったと思う。
五差路の近くのビルの4階にひっそりとある、知る人ぞ知るバー。
インターホンを押して入店するというシステムは、その先に特別な時間が待っているという期待値を、最大限まで高めてくれる。
—『Pitfall』。
ビルに掲げられている部屋番号とお店の名前を何度も確認してから、震える指でインターホンを押す。
「すみません、ひとりなのですが今から入れますか?」
「もちろんですよ」
まるで呪文を唱えると開く洞窟の入り口みたいに、インターホンでの通話を終えた瞬間、扉のロックが解錠された。
ちょっぴり秘密めいた場所に来たような気分になった私は、雑居ビルの扉を開け、おそるおそるエレベーターに乗り込む。
高鳴る胸を押さえお店のドアを開けると、そこには、あの日恭平が連れて来てくれたのと変わらない、ホッとする空間があった。
ゆったりとくつろげそうなソファーに、落ち着いたカジュアルな内装。
ビルの入り口をくぐったときの印象とは、180度雰囲気が異なる。オトナの秘密基地のようなバーなのだ。
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ピットフォール
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