2日後の夜。
美希と誠、そして娘の真奈は、思い切りめかし込んでレストランのオープニングパーティーに参加していた。
煌びやかな空間と、美味しい料理。非日常的な歓びにうっとりとひたっていると、ふいに誠の背後から「海野さん」と呼ぶ声がした。
「来てくださったんですね。ありがとうございます。海野さんのおかげで、いい店になりそうですよ」
「内田社長!こちらこそ、お招きいただきまして、ありがとうございます。この度はオープンおめでとうございます」
誠が挨拶しているのは、『KAIホールディングス』の代表取締役である内田櫂斗だ。
柔和でありながらも威厳のある風貌からは、いかにも凄腕の経営者といったオーラが溢れ出ている。
だが、それ以上に美希の目を強く惹きつけたのは…櫂斗の隣にいる女性の存在だった。
―うわぁ、綺麗な人…。女優みたい。
女性の美貌に美希が思わず見とれていると、その視線を感じ取ったのか、櫂斗が美希の方を一瞥する。
そして、穏やかな微笑みを浮かべながら、隣の女性の肩を抱いた。
「紹介が遅れました。妻の、百々子です」
「百々子です。今日は主人の店にお越しいただいて、ありがとうございます」
櫂斗の紹介を受けた百々子も、ニッコリと微笑む。
まるで絵に描いたような、完璧な夫婦。
その輝きに思わず圧倒されてしまう美希だったが、ハッと我に返るやいなや、慌てて頭を下げた。
「すっ、すいません。ジロジロ見ちゃって。奥様があまりにお綺麗なものですから…。海野美希といいます。主人と同じ会社で働いています」
そう言って頭を下げる美希を見て、櫂斗の顔がパッと輝いた。
「お仕事をされているんですか。それじゃあ百々子と話が合うかも。妻もね、子育てしながら仕事をしているんですよ。もっとも妻の場合は子供ももう大学生ですし、仕事もかなり特殊なんですけどね。『甘木もも』というペンネームで…」
「ちょっとあなた、やめて…。わざわざ言うことじゃないんだから」
意気揚々と百々子の仕事について語り始める櫂斗を、百々子が恥ずかしそうにたしなめる。
だが美希は、櫂斗の口から出た百々子のペンネームを聞いて目を丸くした。そして、恐る恐る百々子に尋ねる。
「あの…。『甘木もも』って、レディコミの『狂乱のアマネ』の作者の…ですか?」
◆
それから数ヶ月後。
美希と百々子は、自由が丘のビストロで、金曜日の夜を共にしていた。
あのオープン記念の夜。百々子がレディコミ漫画家の甘木ももであることが判明して以来すっかり意気投合した2人は、互いに働く母同士ということもあり、仕事や家庭に関する悩みなどを相談し合う仲になっていたのだ。
「それで百々子さん、聞いてくださいよ…。誠くんたら共働きなのに、最近全然家事をしてくれないんです。そりゃ、こうしてたまに飲みに行かせてもらえることには感謝してますけど…」
「うちの夫も似たようなものだよ。前にも話したっけ?同じマンションに住んでる富澤さんっていうご家族はね、奥さんが会社員としてバリバリ働いて、旦那さんが専業主夫をしてるの。そんな富澤さんたちとしょっちゅう家族ぐるみで付き合ってるのに、まったく感化されないんだから」
クールな百々子のコミカルな話し方に、美希はつい吹き出してしまう。
百々子との会話は、38歳と46歳という歳の差を感じさせないほど気安く楽しい。深い色合いの赤ワインが満たされた3杯目のグラスを傾けながら、美希は改めて喜びのため息をもらした。
「はぁ…、何度ご一緒しても、まだ信じられない。私、あんまり漫画は読まないですけど、『狂乱のアマネ』だけは友人に勧められて、のめり込んだんです。あれはもうレディコミじゃなくて、芸術ですよ。その作者の先生とこうしてお友達になれるなんて…」
頬を上気させながら熱く語る美希を見て、百々子は恥ずかしそうに笑う。
「美希さんったら、お酒が入るといつもそればっかり。そんなに大したモノじゃないってば」
だが、そう微笑む百々子の表情は、いつもよりも生気を欠いているように感じる。見れば、いつもなら美希と同じペースで進むお酒の量も、一杯目のまま進んでいないようだ。
ふいに心配になった美希は、百々子に問いかける。
「…どうかしたんですか?なんだか今日は、元気がないみたい」
「そう?…ちょっとペースが遅いかな?」
そう言って百々子は、ほとんど口をつけていないワインを無理やり流し込む。だがその様子は、美希の目になぜだか痛々しく映るのだった。
「百々子さん…。悩んでいることがあるなら、何でも言ってください。話を聞くくらいならできますから」
もう一度尋ねてみたものの、百々子は「なんでもないよ」と言って微笑む。
だが、そう言ったきり考え込むように中空を見つめていた百々子は、しばらくの間を置いてポツリと呟いた。
「ねえ…。美希ちゃんって、人生でドラマみたいなことが起こったことってある?」