「私、全然知らなかったんです。夫がそんなに子供を欲しがってたこと。私に合わせて我慢させてたなんて、思ってもいなかった」
「でもさ、結婚前に子供の話はしたんだよな?それにお前は、“子供は必要ない”という考えを変えるつもりは、ないんだろ?」
おしぼりを固く握りしめ、美希子は頷いた。ここ数年、何度も自分に問いかけたが、やはり子供がいる人生など、考えられない。キャリアを積むことが自分の夢だから。
「あなたの子供が欲しいという夢はこれからも叶えられませんが、私の希望が叶ってイスラエルに転勤することになりました。…なんて、言えませんよ。もう…」
ー…いま、何時?
美希子は、窓から入ってくる薄明かりに気付き、目を覚ました。飛び起きて時間を確認すると8時。あと1時間もするとホテルを出発しないといけない時間になっていた。
急いで部屋中の荷物をかき集め、スーツケースに無理やり詰め込む。行きは夫がパッキング手伝ってくれたため、すんなり収まっていたはずの荷物が、今はどう見ても入りそうにない。
なんとか荷物を押し込んでると、スーツケースの内ポケットに、何やら見覚えのない紙が入っている事に気がついた。取り出すと、先月宿泊したハワイのホテルのロゴが入った封筒だった。
「…なんだろう、これ。」
美希子へ、と宛名書きされた封筒を開けると、そこには几帳面な夫の字が便箋に並んでいた。
短い手紙を読み終えると、美希子の目から一粒の涙が溢れた。姪の結婚式はおろか、自分の結婚式でも泣かなかったのだから、自分でも驚いた。
この手紙を夫がいつのタイミングで書いたのかはわからないが、面と向かって渡すのが恥ずかしかったから、スーツケースに忍ばせたのかもしれない。
スマホを開くと、夫から近隣の国で起きた暴動を心配するメッセージが追加で届いている。近隣といっても、ここからは数千キロも離れている国だというのに。
“こっちは大丈夫だよ。帰ったら茶碗蒸しが食べたいな”、そう送ったメッセージは、すぐさま既読になった。
「…どんだけ心配性なのよ。ふふっ」
美希子は、笑いながらつぶやいた。手紙のお陰で、気持ちが吹っ切れた。
自分の側にいることこそが幸せだと言ってくれる裕介に、今まで通り、甘えようと決めたのだ。
それが自分の幸せだから。
ー日本に戻ったら、一緒にイスラエルについて来て欲しいと、裕介に頼んでみよう。彼は仕事を辞める事になるかもしれないけれど、それでも私は、彼と一緒に行きたいのだから。
パンパンに詰まったスーツケースを引き、美希子はホテルを後にする。飛行機の中でラブレターを書くための、レターセットをカバンに詰めて。
▶Next:10月11日 金曜更新予定
美希子の先輩・田中の「忘れられない、最後のメッセージ」
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この記事へのコメント
今の時代女性の海外転勤に夫の帯同もアリですよね!?
実現するかはわかりませんが、諦めずに話し合ってみたいと思います。