32歳のシンデレラ Vol.1

32歳のシンデレラ:「私は、30代に何を願えばいい…?」上京の夢を諦め、地元で30歳を迎えた女の決意

その夜、2人は浅草にある老舗のとんかつ屋『すぎ田』を訪れた。

明日葉がテレビで見て以来、ずっと行きたかった店で人気店らしく、たくさんの人が列をなしている。

夜7時すぎだっただろうか、テーブルの上に置いていた千尋の携帯のバイブレーションが、談笑中の2人の間に割って入った。手に取って確かめると、それは父からだった。

―お父さん?急に何の用事だろう?


父は大抵の連絡をメールで済ませる。電話してくるときは事前にメールで告知するのが父のやり方で、他愛のないことで急にかけてくることはめったにない。千尋は不思議に思いながらも、席を立ち電話に出た。

「もしもし、お父さん?どうしたの、急に……」

「千尋か……」呼びかけた父の口調から、何か良くない出来事が起きていることはすぐに分かった。

息をのみ、「何かあったの」と聞こうとしたが、先に父が続けた。

「お母さんが倒れたんだ。いま、かなり危険な状態で……」

父の言葉を聞いていたとき、一瞬、“大切なものを失う”という言葉が千尋の頭をかすめた。



翌朝一番で愛媛に戻った千尋の前にいたのは、急な病に倒れ弱りきった母と、憔悴した父だった。

数日後、容体は安定したが、とても一人で生活できるような状態ではない。医者によると、もう以前のような生活を送ることはできないらしい。

大学教授の父は広島で単身赴任中ということもあり、千尋はひとまず卒業まで愛媛に残り、看病をすると自ら宣言した。

だが、ひとまず、とは言ったものの心はすでに決まっていた。

―内定は辞退して、地元に戻ろう。

一人娘で、父の単身赴任のため母と2人で暮らした時間が長かった千尋には、母を残して自分の夢だけを追うなどという選択をすることはできなかった。

大学の卒業式当日、千尋は久しぶりに関西へと戻ると、懐かしい街並みは、以前よりずっと都会に感じた。

―出たかったこの街にさえ、もう戻ってくることはないんだ…。

正門で明日葉と再会を果たしたとき、千尋はどうしても涙をこらえることができなかった。

「お母さんが回復するように、私もずっと祈っているから……。

一緒に上京できないのは悲しいけれど、千尋はきっと、愛媛で幸せになることができるって信じてる……。」

別れ際に、明日葉はゆっくりと、言葉を慎重に選んで、千尋にそう声をかけた。

あれからもう8年。必死の看病もむなしく、母は逝ってしまった。いつこの時が来てもおかしくないと、常に覚悟はしていたつもりだったが、その喪失感は果てしなかった。

明日葉は上京から3年後、職場の先輩と結婚し、夫の海外転勤に伴って海を渡った。

千尋は窓際へ行き、見慣れた街を眺める。

―ねぇ、わたしは30代で何を願い、叶えていけばいいのかな……。

千尋は自分の運命にそっと語りかける。

そのときふと、傍のスマホがLINEの届いたことを知らせる色で光っていることに気づいた。

それは、遠く離れた場所にいる明日葉からだった。

心のこもったそのメッセージに目を通すと、抑えていたはずの涙がまた溢れ出す。千尋はそっと手のひらで涙を拭い、背中を押されるように立ち上がった。

―20代に、後悔はない。でもこれからの30代はもしかしたら、もう少し自分のために生きてもいいのかもしれない……。

好きなことをして、好きな人と結婚して…。少なくとも2年後、32歳くらいまでにはきっと。

母を失った千尋の運命は、ここから大きく動くことになるのだった。


▶Next:7月18日 木曜更新予定
予期せぬ不運に見舞われ20代を終えた千尋。彼女が30歳で踏み出す一歩とは?

※本記事に掲載されている価格は、原則として消費税抜きの表示であり、記事配信時点でのものです。

この記事へのコメント

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No Name
やばい、朝から泣けた…😭千尋頑張って!!
2019/07/11 05:0899+返信8件
No Name
読みやすくて、心情が丁寧に描かれてる。これ、好きな連載になりそうな予感。
2019/07/11 05:2999+返信1件
No Name
辛すぎる‥
親は子供が巣立つまで、元気でいないといけないよね。
子供の幸せ願うなら、自分の健康にも気を配って欲しいと思います。
2019/07/11 05:2999+返信11件
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