社運を賭けた、運命の日
翌日、昼前に出社すると事務所はすっきりと片付き、玄関には綺麗な花が飾られていた。淹れたてのコーヒーの匂いが広がり、心地よい。
「おはようございます。このマグ、僕からのお祝いです。今日から一緒に頑張りましょう」
新品のティファニーのマグカップを持って、和也が笑顔で現れた。和也は、男性には珍しくこんな風に細やかな気遣いができる。その点を美月は買っていた。
「ありがとう。さすが和也。気がきくわね」
「とんでもないです。」
和也は、いちごが好きな小春のために、朝一で『Strawberry Mania』のストロベリーミルクを買ってきたという。
頼もしい社員のおかげで、前途は明るいと確信した。
そして13時の来訪時間が近づき、美月は改めて契約書を広げ、内容を確認する。小春にとって不利になる条件は一切ないはずだ。これ以上の好待遇は他の事務所ではないだろう。
ギャラの取り分に加えて、固定給。レッスンなどの育成費や海外プロモーションのための渡航費も惜しまない。未成年の小春には、親の渡航費も事務所で負担すると表記した。
それ以外にも、リクエストがあれば応じるつもりだ。
最初は事務所の負担が大きくても、彼女は必ず化ける。回収が確実なのはもちろん、収益は何倍、何千倍にも膨れ上がるだろう。
面接する側のはずの美月が、まるで面接されるかのような緊張感だった。
しかし、さきほどから神妙な面持ちで和也が電話で話している。その姿に、美月は嫌な予感がしていた。
電話を切った和也に、すかさず声を掛ける。
聞けば、本格的なモデル活動に乗り気ではない小春の母親が同行を拒み、父親と一緒に来るという。
これほどの大型案件なのだ。小春のことは多くの事務所が狙っていたので、ここまで辿り着けただけでも奇跡と言ってもいい。すべてがスムーズにいくわけはないだろう。
相手が父親でも、堂々と誠実に、熱意を伝えるだけ。そう自分に言い聞かせた。
約束の時間から15分。ついに事務所のインターホンが鳴った。
和也が対応し、応接室へ通している間に、美月は社長室で深呼吸を繰り返していた。コーヒーを一口飲み、よし、と小さく気合いを入れる。
そして背筋を伸ばすと、口角を上げ、書類を小脇に抱えて小春の元に向かったのだった。
◆
「失礼いたします」
そう言って応接室に入った美月は、思わず手に持った書類を落としてしまった。
「…裕一郎!?」
目の前の光景は、夢か幻か、それとも悪夢なのだろうか。そこで目を見開いていたのは、あの男だったのだ。
乾裕一郎。10年前、美月を裏切り、捨てた元夫。
「美月…」
そうして、お互いに言葉を失ったように固まってしまった。
「あれ?…二人、知り合い?」
異変に気付いた小春が、美月と父親の顔を怪訝そうに見比べる。
「あ…ちょっと昔…。その…」
裕一郎はしどろもどろで適当に取り繕おうとしているが、まさか娘に向かって、この社長が前妻だったなんて、言えるはずもないだろう。怒ったような顔をして、突然かばんを掴んだ。
「…小春。この事務所はやめよう。もう帰る」
「どうしてパパ!?いや!」
目の前では親子ゲンカが始まった。和也は、美月が床にばらまいてしまった書類を慌てて拾いにきたが、手を止めて不思議そうにその光景を見ている。
ー前途多難。
その言葉が浮かび、膝から崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえながら、美月は大きくため息をつくより他なかった。
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偶然の再会を果たした、元夫婦の2人。美月は、蘇るトラウマに苦しめられるが…。
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この記事へのコメント
え!?お前が言える立場か!?裕一郎!!失敬な!!(笑)