「捻転に悪性って…」
梨子の母は、ショックを隠しきれないようにつぶやいた。日ごろから無口な父は、黙ったまま何も言わない。
「梨子ちゃんは結婚も子供もまだなのに…。仕事、仕事ってちっとも体を休めないから」
母が目に涙をためているのを見て、梨子の胸がズキンと痛む。
「心配かけてごめんね。大丈夫だよ」
これ以上両親に心配をかけたくなくて、強がってみる。
両親には、大丈夫だからと言い張って帰ってもらった。帰り際に母は「後悔しないように自分の人生を大事にして」と念を押して去って行ったのだった。
静けさを取り戻した病室で、現実が重くのしかかっていた。スマホで「卵巣」「腫瘍」「悪性」と調べると、「がん」という言葉が真っ先に目に飛び込んできて、梨子の胸に突き刺さる。
―仕事もいいけれど、後悔しないように自分の人生を大事にして。
そんな風に母は言い残していったけれど、好きな仕事をすることも梨子の人生にとって大事なことなのに。専業主婦の母には、きっとそれがわからないのだ。
◆
「橘さん、一緒に10秒数えてください。1、2、3」
あっという間に意識がなくなった。
梨子は麻酔が覚めるまで、夢を見ていた。
3年前のイブの続き。ケーキを食べながら、彼が優しく微笑んでいる。
「美味しい。俺は本当に幸せだよ」
オーパスワンで乾杯した後に、彼がひざまずく。
「梨子、結婚してください」
梨子は彼の手を取り、「嬉しい」と涙する。
そのとき不意に目が覚めると、握っていたはずの彼の手は…母の手だった。
「梨子ちゃん、良かった…目が覚めたのね。先生が、結果は悪性じゃなかったって…。あなた、泣きながら眠っていたわ。不安だったのね」
母は、泣いている梨子を見たのは小学校の時以来だと、心配そうに呟いた。
安堵と同時に、もやもやした気持ちが一気に広がっていき、「後悔しないように」という母の言葉が、何度も頭の中でリピートしている。
ーううん、私には仕事がある。友達だって大事な家族だっている。ないものねだりはやめよう…。
梨子はそう自分に言い聞かせ、これ以上考えるのをやめたのだった。
翌日の朝、術後の検診のために看護師さんに連れられて、婦人科の外来に降りた。
すると次の瞬間、パジャマ姿で化粧気のない梨子の目には、衝撃的な光景がとび込んできたのだ。
婦人科外来の向かいの、産婦人科の受付には、幸せそうなお腹の大きい妊婦さんたちがたくさん座っている。彼女たちは、愛するパートナーと手を握り合い、神々しいほどの微笑みを浮かべていた。
梨子は咄嗟に、羨ましいという気持ちに蓋をしようとした。これまでもずっとそうやって生きてきたのだ。
だけどその時に限っては、溢れ出した気持ちをどうしても抑えることが出来なかった。
―このままじゃ、絶対に後悔する…。
自分が残念な男としか付き合ったことがないこと。恋愛するのが怖くてたまらないこと。そして32歳にもなって、ピンチの時に側にいて手を握ってくれるのは、母親だけだということ。
傷つきたくないから、くよくよしたくないから、その真実に目を瞑ってきたけれど、人生このまま終わりたくない。
梨子は、身体の奥底からの叫びを感じていた。
自分が愛した人に愛されたい。結婚がしたい。そしてー。
愛する人の子供が欲しい。
こうして、梨子の"人生最後の婚活"が幕を開けたのだった。
▶Next:4月24日 水曜更新予定
男運ナシ子の復活?それとも今度こそ、運命の出会い…?梨子の前に現れた、高スペック医師とは。
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