ベッドルームに場所を移して再開された撮影では、そのシチュエーションのせいか、好意を告白したせいなのか、秋川光希の動きは大胆になった。
ベッドボードにもたれかかった僕の首と肩を、ボルドーのネイルの白い手が撫でたかと思うと、耳元に彼女の吐息が触れた。
突然の感触に、ビクッと背中を震わせてしまった僕を、唇を寄せたままの彼女がクスクスと笑う。
「光希さん、それ、最高です! そのまま…レオさんの耳に唇をつけたまま、何か囁いてみてください。レオさんは、そうカメラを見て…彼女から逃げるように視線をそらし続けて」
彼女の上唇が、僕の耳の輪郭を、ゆっくりと優しくなぞってゆく。女性スタッフのため息が漏れると同時にシャッターの音が激しくなり、今度は耳を食まれた感触があった。
惚けたように釘付けになっている男性スタッフの表情を見る限り、彼女は今、とてつもなく妖艶な表情をしているのだろう。だが僕は、ただこの場に身を任せながら、あの謎の声の主かもしれない人物について考えていた。
◆
「ねえ、レオさん、今度はいつ会える?」
取材の翌朝、ホテルの地下駐車場に停めてあった僕の車の助手席で、秋川光希は昨夜よりも随分砕けた口調でそう言った。
「…君が会いたいと思った時に連絡くれれば、またいつでも」
僕がそう答えながらエンジンをかけると、「No way!レオさんの方からは連絡してくれないってこと?ひどい!」と言いながら、彼女はケタケタと笑った。
撮影の時の濃いメイクがない、素顔。年相応に幼く見えるが、十分美しく魅力的だ。
大きな口を開けて笑う、その気取りの無い笑顔は、太陽に向かって咲き誇る真夏のひまわりのようだ。それが僕にはひどく眩しくて、思わず目をそらしてしまった。
―失敗したかな。
結局、僕と秋川光希は、撮影に使ったスイートルームで朝まで二人きりで過ごしてしまった。
対談も含め全ての撮影が終わった後、もう少し話を聞きたい、とスタッフの前で堂々と誘われてしまうと断りづらく、二人でバーへ行った。お互いに3杯目を飲み干した時、彼女が小さなバッグの中から取り出したのは、このホテルのカードキー。
「レオさん、今日ここまで自分の車を運転して来てるって聞いてます。こんなに飲んじゃったら、もう帰れないよね?」
これ、スタッフさんにおねだりしちゃった、と言いながら、ひらひらと僕の目の前にカードキーをちらつかせた彼女の、確信めいたいたずらな笑顔につられて笑い、つい心惹かれてしまった。
タクシーに乗るよ、と断るべきだったのに。
―どうせ今夜も…一人じゃ眠れない。
鏡を見て吐き気が起こった日は、決まって酷い悪夢に襲われるから。そんなことを言い訳にして、彼女に手を引かれるまま、エレベーターに乗り込み、誘われるまま唇を合わせた。
Who?
—この男は、誰だ?—
明晰な頭脳と甘いマスク、輝かしい経歴を武器に、一躍スターダムにのし上がった男がいる。
だがもしも、彼の全てが「嘘」だったとしたら?過去を捨て、名前を変え、経歴を変え、顔を変えて別人になっていたら…?
彼へ羨望の眼差しを向けていた者は、きっとこう思うだろう。
「この男は、本当は誰だ?」と。
だが実は、当の本人こそが一番思っていたのではないだろうか。
鏡に映る自分の顔を見て、「この男は、誰だ?」と。
その絶望と孤独を、あなたは想像できるだろうか?
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