自分の体に起こり始めた変調を認めたくなくて、僕は毎日、試すような祈るような気持ちで鏡を覗く。大丈夫な日もあるのだ。けれど…。
―ダメな日が増えてきてる、な。
この吐き気が始まったのは…社長の茜さんが“消えた”あの日からだ。不意に、茜さんからの忘れられない言葉が蘇った。
『自分で純粋だと思っている田舎者ほど、快楽に弱いの。優也、あなたみたいなね。快楽を一度知ったら、手放せなくなるわよ。その快楽を、私があなたに教えてあげる』
今となれば呪いのような、その言葉。
最初に彼女がそう言った時、僕は怒りを含んで笑いとばしたはずだったのに。
でも今は、その言葉通りになってしまった。僕は「彼女に用意されたはずの快楽」を手放せず、しがみつき続けている。
僕にとっての快楽とは、僕が幼い頃から抱き続けた『夢』そのものだった。
日本、いや世界で活躍するジャーナリストになるという夢。
―それが、嘘を重ねて勝ち取ったものだとしても…何が悪い。
顔を上げ、まるで罰のような吐き気に耐えながら、鏡の中の男を睨みつけて、言い聞かせる。
―しっかりしろ。茜さんは消えた。だから怯える必要はない。僕の嘘を知る人は、もうこの世にいない。もし邪魔者が出てきたとしても…また…消してしまえばいいんだから。あの時、覚悟は決めたはずだろ?
そう鏡に呼びかけた時。
キィィン……耳鳴りが。
「あなたはだあれ?」
覚えのある女の声が脳内を這い回るように聞こえ、鏡の中の顔が、ドロッと崩れた。
悲鳴をあげそうになり、慌てて目を閉じる。
大丈夫だ、これは幻覚。顔は崩れてはいない。崩れるわけがないだろ?最高の手術を施したこの顔は…。
手のひらで顔の形を確かめながら、目を閉じて長く息を吐き出す。それを何度か繰り返し、落ち着いてきた時にノックの音がして、僕は明るく、はい、と答えた。
「そろそろ、撮影を再開したいそうです」
愛想のない相原の声に、わかった、と返して目を開ける。そしてバスルームを出ようとした時、胸ポケットに入れていた携帯が短く震えた。
取り出すと、ホーム画面にSMSが届いた通知が表示されている。
そして、その文字は…。
『消しちゃったんでしょ?』
―ふざけるな。
携帯を握る手が震える。
番号は多分、昨夜の電話と同じものだ。けれど込み上げてきた怒りのせいか、もう昨夜ほどの衝撃は受けなかった。
―どこの誰だか…突き止めてやる。
僕はバスルームを出るとドアの前で待機していた相原に、困った顔を作って言った。
「最近、この番号からのいたずら電話とメールが酷くてさ。今も鳴ったんだけど、意味不明な内容なんだよ。変質者やストーカーだったりして、後々事務所に迷惑をかけても困るし…。
この発信者を調べてくれないか?ただし、僕と君だけの秘密にしてほしい」
表情を変えずに僕の話を聞いていた相原は、承知しました、と短い返事をすると、僕の携帯の画面を、自分の携帯で写真に撮った。そして何事もなかったかのように僕を、秋川光希が待つ次の撮影ポジションまで誘導した。
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