2019.02.10
実家暮らしの恋 Vol.1何か言われるかと思ったが、遥を一瞥したあと柴田さんはすぐパソコンに目を移し、力強くキーボードを叩き続ける。
お手伝いしましょうか、と声をかけようかとも思ったが、「いつもの嫌味」を言われるのが関の山だと考え直し、事務仕事を片付けた遥が退社したのは20時だった。
帰りの地下鉄に揺られながら、遥は未来に思いを馳せる。
他商社で働く遥の彼・圭介は、遥の1歳年上、29歳だ。付き合いたてだが、アラサ―ともなれば付き合う相手との将来はどうしたって考えてしまう。
―仕事は続けたい。もし駐妻になっても、会社の制度を使って戻ってきたい。
―そろそろ彼の家にも行ってみたいな。
奥沢駅で降り、家に向かっている夜道でも、そんな風にぼんやりと幸せな空想が遥の心を占めていた。
ただいま、と玄関の扉を開けた途端に、愛犬・マルチーズのミミが遥に駆け寄って来た。
「ミミちゃ~ん、ただいま♡いい子にしてたかなぁ?」
遥は会社にいるときとは全く異なる、1オクターブ高い甘えた声を出しながら愛犬を抱える。
「おかえり、遥。残業だったの?」
エプロンをつけた遥の母・薫子が、キッチンからダイニングの方に顔を出す。
リビングには飛騨家具、ギャッベのシックなラグ、よく使いこまれた茶色い革のソファ。コートを脱いでカバンを置き、そのままソファにどさりと座る。
―ああ、家に帰るとやっぱり落ち着く…。
遥は実家から一度も出たことがない。生まれてこの方、28年間ずっと両親とともに住んでいる。
「そうなの~。夕方の会議が長引いちゃってさぁ。はーぁ疲れた…。今日のご飯、なぁに??」
「今温め直すから、ちょっと待ってて」
食卓の上にはビーフシチューと、イカとエビのマリネサラダが置かれている。
「わ~♡エビ、美味しそう!」
「もう…。そんな調子のいいことばかり言ってないで、いい加減自分で作れるようになってほしいわ」
「いざとなれば、できるって!お母さん、これお弁当に持っていけないかなぁ。おー、ミミちゃん、おいでおいで」
ため息交じりの母の言葉をしれっとかわし、愛犬と戯れながら洗面所に向かった。こんな会話をしてるなんて、会社の人には絶対知られたくないな、と思う。
この世田谷の実家にいれば、会社まで1時間かからない。家賃の支払いは不要。
残業で遅くなっても、用意されている温かい食事。季節に合わせてきちんと整えられている寝具、脱ぎっぱなしにしてもきちんと畳まれている洋服。
そして何より、今日あった出来事や他愛もない話に耳を傾けてくれる家族。
実家暮らしは天国だ。
就職と同時に家を出た弟には馬鹿にされている。そう、いつまでもここにいるわけにいかない、とぼんやりとした自覚はある。そして気付けば28歳になっていた。
(これだから、実家暮らしはね)
遥の脳裏に、会社の大先輩、柴田さんにいつぞや言われた嫌味が蘇る。
「なにぼやっとしてるの。早く食べないと。あっ、お風呂、追い焚きしておくね。」
「…ありがと」
いつまでも甘えてはいけないと思いながらも、快適過ぎる実家の魅力には抗えない。思う存分仕事に打ち込めるのも、ボーナスでカルティエの時計が買えるのも、実家暮らしだから為せる技だ。
だから遥は時々考える。実家暮らしってそんなにいけないことなのだろうか、と。
経済的には楽だし、両親はなんだかんだ娘が家にいることが嬉しそうだ。柴田さんに嫌味を言われたり肩身の狭い思いをすることはあるが、別に誰かに迷惑をかけているわけではない。
…ただ実家暮らしということを圭介にはまだ言っていない。付き合いたてだし、何となく言いそびれてしまっている。
遥は母の手料理を食べたあと、追い焚きされた心地良い湯につかりながら、ぼぅっと幸せを噛み締める。
部屋に戻ると、ソファに脱ぎっぱなしだったコートが、クローゼットにきちんとかけられていた。
「実家暮らしだから〇〇」じゃない気がする。本人にその気があるかないか。料理だってその他の家事全般だって、実家にいようといまいとやる人はやる。家賃分実家に収めてる人だって大勢いるでしょうに。逆に一人暮らししてようとだらしない人はだらしない。実家暮らしか否かは本質ではないと思う。
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