2018.05.02
馴れ初め
「お腹減りましたね。ご飯でも、どうですか?」
その言葉に彼は一瞬しかめっ面したように思ったが、あっさりと「いいですよ」と言って、さっとタクシーを拾い、『銀座 楼蘭』に連れて行ってくれた。
(※こちらの店舗は、現在閉店しております。)
着いてからも自然にドアを開けてくれたり、気がつけばお会計を済ませてくれていたりと非常にスマートで、それは普段見ていた姿からは想像できなかったので驚いた。
しかも何より、一緒にいて楽しかったのだ。おしゃべりなわけではないが、言葉選びや話題のチョイスが絶妙で、気がつけば私は彼にのめり込んでいた。
そうして程なくして、私たちは付き合い、結婚をすることになった。
結婚したときは本当に嬉しかった。私と付き合ってから柔らかな雰囲気を醸し出すようになった洋介は、もともと歌舞伎役者のような整った顔立ちをしていたせいもあり、女性社員から憧れられるような存在になったのだ。
私はそんな夫を自慢に思っていたし、社内で「お似合いの夫婦だ」と言われる度に、こそばゆくも嬉しく感じていた。
しかし、このとき…“予兆”はすでにあったのだ。
私が他の男性社員と笑顔で話していると、洋介は明らかに不機嫌な様子を見せた。経理という仕事上、様々な部署の男性と話すのは仕方がないことだし、笑顔で接するのも社会人としての常識だ。
けれど彼はめざとくその現場を見つけては、家に帰ってチクチクと言うのだった。
「随分と楽しそうに仕事をするんだな。仕事場をホストクラブとでも間違えているのか?」
そこで私が反論すればよかったのだが、男性に対して従順でなくてはいけない、と無意識に思い込んでいた私は、なるべく彼を怒らせないようにと努めた。
そうして徐々に笑顔が少なく、明らかに男性に対して様子のおかしい私に、同僚達が心配してくれた。
「どうしたの?最近変だよ?何かあった?」
「ううん、大丈夫。ごめんね、心配かけて。仕事はちゃんとするから。」
そうしたやり取りを聞いていたのか、洋介の上司が彼にこう言った。
「なんか最近、お前の嫁さん元気ないって言われているぞ?彼女は皆のアイドルなんだから、元気づけてやれよ。」
プライドの高かった洋介は、上司にプライベートなことを言われたことが、心底恥ずかしかったようだ。その上、自分の妻が「皆のアイドル」と言われたことが、からかわれているようで相当頭に来たらしい。
その夜、暴力こそなかったものの、数々の暴言を浴びせられ、無理やり辞表を書かされた。そして私は翌日、それを提出し、引き継ぎもそこそこに会社を辞めてしまった。
そこからは地獄のような日々だった。私が生きているのは洋介のためだ、とでも言うように、全てを洋介に捧げる毎日だった。
少しでも気にくわないことがあると食事も与えられず、暴言を浴びせられる。そうして私も洋介も、徐々に壊れていった。
最終的には友人や両親とすら連絡を取らせてくれなくなり、異変に気がついた母がある日、様子を見に来てくれた。
昼間なのにカーテンを閉め切り、けれども物音のする我が家を見て、すぐにおかしいと気がついたようだった。
「どうしたの!?何があったの!」
玄関を開けた私を見た母の、最初の言葉だった。
母はすぐに私を実家へと連れて帰った。私を泣きながら見つめる母を見て初めて、自分の置かれた状況がおかしいことに気がつき、涙が止まらなくなっていた。
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