目を逸らし続けた、不穏な気配
「ヘーイ!ワッツアップ、キョーコ」
表参道の自宅に戻ると、夫・マツタケがNintendo Switchでマリオカートに夢中になりながら、ヒラヒラと片手を上げて合図した。
このゲームは、バレンタインに杏子からプレゼントしたものである。
ふくよかな身体を揺らせてゲームに没頭する夫を見ると、杏子はいつもフワっと心が軽くなる。
マツタケと結婚するまでは、恋愛にも婚活にも苦労ばかりしていた。
並外れた美貌のおかげで男性からのアプローチはそれなりにあったものの、ひとたび杏子がその気になると、男たちは揃って
「君といると疲れる」
「ちょっと重い」
「もっといい人がいると思う」
などと、及び腰で去っていくばかりだったからだ。酷い場合には、平気な顔で浮気されることすらあった。
外見はバリキャリで強い女に見られがちであっても、杏子は極度の寂しがり屋で、そして大の恋愛下手だったのだ。
よって、色気も薄いが駆け引きも必要のない、とにかく温和で明るいアメリカナイズドなマツタケは最高のパートナーだった。
結婚相談所の助けナシには、絶対に出会うことはなかっただろう逸材である。
杏子は、奇声を上げながらマリオカートに奮闘するマツタケの隣に、そっと腰を下ろす。
この結婚生活が自分にとってかけがえのないモノであることは、決して嘘ではない。
夫婦関係は順風満帆以外の何ものでもなかったし、二人で美味しいものを食べたり、週末にふらりと小旅行に出かけたりする日々を心から幸せに思っている。
ただただ平和で楽しく、自由で余裕のあるDINKSライフ。
もちろんマツタケは杏子ほどのエリートではないが、その分何事も器用な彼は、家事や料理も嫌な顔一つせずに引き受けてくれた。
何よりも有り難かったのは、杏子がいくら仕事に邁進し、いくら稼ごうとも“ワーォ”と笑顔でハイタッチを交わし、軽いテンションで応援してくれることだ。
高給取りの女におかしな闘争心や遠慮、そして引け目などを感じない男は、経験上、とても貴重な存在である。
......だから杏子は、なるべく“それ”に目を向けないようにしていた。
何となく不穏な気配を感じ始めたのは、結婚から1年ほど経過した頃。
「もしかして...?」と度々不安に襲われるようになったのは、それからさらに半年が経過した頃だろうか。
そして、今日の「赤ちゃんはまだなの?」という由香の何気ない一言によって、“それ”は恐怖にも似た感情を伴って胸に蘇った。
最終的に杏子は、とうとうこれまで目を逸らし続けていた“それ”を、恐る恐るスマホで調べてしまった。
通常の夫婦生活を2年以上送っているにも関わらず妊娠しないのは、立派な“不妊”と呼べるとのことだった。
▶NEXT:3月10日 土曜日更新予定
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