幸せそうな夫妻
「嘘だろ…」
赤坂のオフィスに到着した保は、コールセンターからの新着メールに絶句した。
−早期解約通知−
文字を見るだけで、息苦しい。それは、保険プランナーにとってダメージMAXの緊急事態なのである。
契約後何年も経たぬうちに解約となった場合、支払われているコミッションの殆どを、払い戻さねばならないのだ。
解約が入ったのは、佐田夫妻。保のチームリーダーである近藤から半年前に紹介され、ドル建の積立保険を契約した夫婦だ。
−まさか、本当に近藤さんの言ってた通りになるとは…。
保は瀕死のダメージに狼狽しながらも、近藤の直感に感心せざるを得なかった。
そう、実は近藤は契約時に、佐田夫妻の早期解約を予言していたのである。
◆
−半年前−
「ラグビー部時代の後輩の、会社同期なんだ。紹介するから三上の担当で頼むよ」
チームリーダーの近藤はそう言って、やたら白い歯を保に向けた。
近藤は基本的に個人契約を担当しない。彼が率先して契約するのは、契約単価が桁違いの、法人契約だけ。わかりやすく拝金主義な男である。
しかし一方で近藤という男は情に厚く、抜群の千里眼を持つ。そして何より人を惹きつけるカリスマ性があった。
保が、それまで勤めていたメガバンクを辞めて保険プランナーとなったのも、早稲田大学の先輩で、卒業後も何かと可愛がってくれていた近藤から「三上なら必ず成功する」と熱烈にスカウトされたからに他ならない。
そして実際、明晰な頭脳、柔らかな物腰、誰とでもすぐに打ち解けられる性格が保険営業に向いていたのだろう、保は2年目にして早くもMDRT(Million Dollar Round Table:世界中の生命保険業界トップセールスマンで構成される組織)の入会資格を得るまでとなっていた。
「夫の佐田勲さんは32歳で物産勤務。前回の顔合わせで積立保険を希望と言っていたから、まずは松プランで提案しよう」
大手町の『ザ・ラウンジBYアマン』で仕事帰りに落ち合うことになっている佐田夫妻の到着を待ちながら、近藤は不敵な笑みを浮かべていた。
「先日はどうも。こちらが私の部下で、佐田さんの担当をさせていただく三上です」
近藤に促され、保は佐田夫妻に頭を下げた。
夫の佐田勲は、実にエリートらしい凛とした佇まい。損保OLだという妻は白いファー付きのコートを小脇に抱え、愛おしそうに夫を見上げて微笑んでいる。
−俺にもこんな可愛らしい妻がいたら、仕事にもさらに精が出るだろうか...。
新婚カップルが放つ幸せオーラを全身に浴び、保が柄にもない感想を抱いたのは、しかし最初の1分だけだった。
「どうぞ、お掛け下さい」
近藤がそう促した次の瞬間、保は我が目を疑った。
夫の後を追うようにして着席した妻は、何の迷いもなく自然な振る舞いで、隣に座る夫に腕を絡めたのだ。そして、ほとんどもたれかかるような格好で、ぴったりと身体を寄せて甘えている。
保険の商談の場であるにも関わらず、である。
おそらく佐田夫妻にとっては、至って普通の光景なのだろう。
夫の佐田勲も妻の行動を特に気にする様子はなく、むしろ妻を愛おしそうに見つめながら、近藤の提案に頷いている。
保は「気にしない、気にしない」と自分に言い聞かせるが、見ているこっちが恥ずかしくなってしまい、どうにも居心地が悪い。
−いい大人が、人前でベタベタしすぎだろ…。
苦笑いを浮かべながらこの場をやり過ごしていると、近藤がクロージングに入る気配を見せた。
保も、姿勢を正して先輩のプレゼンを見守る。
すると、想定外のことが起きた。
近藤は当初予定していた“松プラン”ではなく、その半額近い“梅プラン”を勧め始めたのだ。
この記事へのコメント
あっでも次回予告見る限り恋愛系なのかな?