康史は、同じ会社の営業部にいる31歳。学生時代にはずっとテニスをしていたそうで、今でもたまに、ホテルに併設されたテニスコートを友人たちと借りてプレーしているスポーツマン。
去年の年末にホテルで開かれた、会社主催のクリスマスパーティーで同じテーブルになり、そこで初めて言葉を交わした。
真樹は、初めてとは思えないほど康史に妙な親近感を持てた。まるで、ずっと前から知っている気心の知れた相手のように。
それは康史も同じだったようで、自然な流れで食事に行く約束をして、互いに同期を誘って4人で食事に行った。
康史が真樹に、ただの好意以上の感情を秘めているのは確かだろう。何度か食事を重ねるほどに、その考えは間違っていないと思うようになった。
だが「同じ会社の男性」というのが引っ掛かるのだ。
社内恋愛なんて、本当はしたくない。そんなもの、リスクが高すぎると真樹は思っている。
付き合ったとしてまず、同僚たちに知られたら面倒だ。さらに、別れることになっても居心地が悪くなってしまう。この会社にいる限り「あの人と付き合ってた」という過去がついてまわるのだ。
もう、情熱だけで恋愛するような年齢も過ぎてしまった。だから、冷静に考えるほどに身動きが取れなくなっていくのだった。
食事会で出会った、嫌な男
そんなことばかりを考えていたある日、人数合わせで食事会に参加することになった。場所は銀座の『バラババオ』。
「あれ、真樹ちゃん唇テカテカだね~。このお店、天ぷらはないはずだけど?」
食事会の序盤で、真樹が綺麗にグロスを塗った唇を見ながら、目の前に座った男がそう言って茶化してきた。
竜太という、広告代理店の営業マンだ。
いくら付き合いで参加した食事会とは言え、会社を出る前には入念にメイクを直した。アイラインを引き直し、顔には細かい粒子のパウダーを乗せて、仕上げにグロスをたっぷり塗った。
薄暗い店内では、艶々と輝く唇が女性らしさの象徴だと、真樹も真樹の女友達も信じている。だからこの日の食事会でも、女たちは皆お手洗いに行く度に、競うようにグロスを塗り直していた。
いつも唇が艶めいている女こそ、同性からは「女子力高め」と称されるのだ。
それなのにこの竜太という男は、何もわかっていないくせに失礼な言葉を投げつけてきたばかりか、真樹があからさまにムッとした顔をしても、ヘラヘラ笑っていた。
4人いる男性の中で、顔は2番目にタイプだった。だが、この一言で竜太と口をきくのはやめようと決めた。
それなのに、竜太はことあるごとに真樹に話しかけてきたのだ。
もともと期待なんてしていなかったが、帰りの電車の中で「行かなければよかった」と、思わずにはいられなかった。