ボディタッチを巧みに駆使しながら、久美子に気付いた彼女は心なしか、挑戦的な目を向けているような気がする。直後、余裕たっぷりの笑みを浮かべて、隣に立つ頼樹に久美子の存在を知らせた。
彼女に指摘されて久美子に気付いた頼樹は、ちょっとバツが悪そうな表情で近づいて来た。
「おお、どうした?」
「名刺入れ、返そうと思って。」
名刺入れを渡していると、さっきの彼女は頼樹に気付かれないよう一度だけちらりと久美子を見た後、髪をなびかせながらくるりと振り返り、こちらに背を向け歩きだした。
久美子の視線が彼女に向いていることに気付いた頼樹は、無神経にも
「あ、彼女うちの局長の新しい秘書の山崎奈緒さん。可愛いだろ。お前も少しは見習えよ」と言ってきた。
その言葉に、久美子の怒りは爆発寸前だ。
頼樹の言葉には何も返さず、「打ち合わせがあるから、戻るわ」とだけ言って、その場を後にする。
久美子は平常心を保とうとするが、内心ではフツフツと怒りがこみ上げていた。
ー ただでさえ仕事で頭がいっぱいなんだから、余計な事でイライラさせないでよ……!
義務のように会ってる関係。そこに愛はあるの?
久美子はその日の夜、一人暮らしの部屋に帰ると、久しぶりに湯船に浸かって大声で歌を歌った。昔からのストレス発散法だ。
ー 私だって、連日の深夜残業がなければ……。
そう思わずにはいられない。これ以上睡眠時間を削って美容のために時間を割いても、本末転倒でしかない。どんな服が流行ってるかもわからないし、百貨店の化粧品売り場であれこれ試してもらう時間も、美容院で毎月トリートメントする時間も、今の久美子には捻出することができない。
だが久美子には、男性たちと肩を並べてしっかり仕事をしているという自負がある。
ー そもそも、二週に一回、義理のように会ってるだけの今の関係って、本当に「愛してる」って言えるの?
ー 男は仕事さえ頑張ってればいいんだから、女と違ってわかりやすくていいわよね。
ー でも確かに”忙しい“を理由に、自分のメンテナンスは手を抜いてたかも……?
認めたくはないが、目の下のクマ、ガサガサのかかと、パサついた髪……。艶っぽさとは縁遠い日が続いているのは、認めざるを得ない。
ー あの子は確かに、可愛かった。ああいう子がモテるのも分かってる。アヤコさんだったらこんなことで悩んだりしないのかな。
久美子は、一番尊敬している先輩のアヤコさんを思い出した。
アヤコさんは帰国子女で、常に最先端の流行を自分なりにアレンジして取り入れるのが上手な、社内のトレンドセッター。写真の撮られ方に強いこだわりを持っていて、上司に10回も写真を撮りなおさせたという伝説の持ち主。帰国子女らしい口癖の「oh my god」を初めて聞いた時は驚愕したが、その身のこなしは洗練されている。
アヤコさんを見習って、自分らしくいたいっていう思いは常に持っているけど、なんだか最近は空回りしている感が自分でも否めない。
気が強く負けず嫌いな久美子でも、今回の頼樹の発言には考えさせられるものがあった。それに山崎奈緒の、あの余裕の態度は何とも鼻につく。
ー あんな女と比べられるなんて……。
ー 悔しい、悲しい、負けたくない。
ー でも、いっぱいいっぱい……。
5年も付き合ってきたのだ。一緒に築いてきた時間が、そう簡単に崩れるとも思いたくない。だが、久美子はなんだか嫌な予感がするのだった。「あんなに可愛い子に言い寄られても、頼樹は絶対私を選んでくれる!」と自信を持って言うことはできない。
久美子は言いようのない危機感に襲われた。だが、何を頑張ればいいのかも分からない。
久美子の複雑な思いはどこにも着地できず、心のモヤモヤは溜まるばかり。明日もきっと、深夜まで残業だ。