2016.08.02
お酒の履歴書 Vol.4「ほらっ、乾杯しよ。チンチン、なんとかなるさ〜って」
それは自分が美佳に教えたイタリア流乾杯の挨拶だった。
「えぇ?」
「チンチン、チンザノ!ってやろうよ」
「うん」
久しぶりに美佳とグラスを重ねた。
「でも分かるよ。仕事は自分自身だもんね」
「今回は絶対に決めたかった…。それにさ、実はプレゼンに負けた相手、H社の大学時代の同級生だったんだ。いまごろあいつは気持ちよく祝杯をあげてるんだろうな」
「お酒はいい時のためだけにあるわけじゃないよ。西野、私が失恋した時に乾杯で励ましてくれたじゃん。私、あの時の会話とお酒がなかったら、もっと落ち込んで引きずっていたよ」
心がくだけた時に側にいてくれた人の言葉は大きい。
「今回はダメだったけれど、これで西野の営業人生が終わったわけじゃないよ。次のプレゼンがまたくるし、その日のために頑張っていこう!西野、仕事好きでしょ」
「好き…」
「私も、仕事好きだな。だって会社で働いているから、頑張ったことは褒めてもらえるし、間違ったことは叱ってもらえる。うまくいった時の快感といったら、嬉しいを通り越して超気持ちいい!」
「それを今回味わいたかったよ」
喉が渇いていたこともあり、グラスのなかのチンザノ アスティはもうない。
「しょうがない、今日はとことん後悔しながら飲もうか。女々しい西野につきあうよ(笑)」
美佳はそう言って俺の肩をポンとたたくと、スパークリングワインのお代わりを頼んでくれた。
自分は、これまで仕事の失敗を人に嘆いたことはそうなかった。それは相手にとって人ごとだし、言っても共感されづらいことだと思っていたからだ。
美佳に励まされているうちに、俺は11年前の就職活動の面接のあとにこうしてふたりで飲んだことを思い出した。どちらも仕事についての嘆きと、それに対しての励まし。きっとどんなことにおいても、美佳は一緒に喜んでくれたり、一緒に悲しみも受け止めてくれる気がしてきた。
「大丈夫だよ! 西野は“The Greatest”だから」
「モハメド・アリか(笑)」
「“The Greatest”って自分で言い出したらしいよ。アリは詩人で自己プロデュースも上手かったんだって。西野もアリ流に自分で自分を奮い立たせよう!」
睡眠不足とプレッシャーが続いた日々が終わり、この日の酔いは早かった。モハメド・アリからデヴィッド・ボウイ、象のはな子の話をしたところまではうっすら覚えている。
美佳は「デヴィッド・ボウイと象のはな子は同じ歳なんだよ」と得意げに言っていた。昔から美佳のウンチク話を聞くのは好きだった。
そこから記憶がとぎれ、気づいたら築地の自宅で眠っていた。気になったのが、プレゼン直前で散らかり放題だった部屋が、気持ちマシになっていたことだった。
はっとして、美佳に電話をかけた。もう土曜の夕方になっていた。
「もしもし」
「あ、起きたの? よく寝たね〜」
前日もほぼ徹夜だったので、まさに泥のように寝てしまった。
「あのさ、昨日俺どうやって帰ったの? ぜんぜん覚えてないんだけど」
「私が家まで送ったよ」
「マジで?? それで」
「玄関に突っ伏して寝ちゃいそうだったから、とりあえず着替えてもらった。スーツで寝たら気持ち悪いでしょ」
「うわー」
聞けばふたりでワインを赤白2本飲み、その後『すしざんまい』で日本酒も飲んだらしい。
「着替えさせてもらったわけじゃないよね?」
「いや、違うけど…、なんか小学生の男の子とお母さんみたいな感じかな」
「部屋が散らかってたのも恥ずかしい」
「うん、多少よけたりしたけど途中で諦めた(笑)」
「何も変なこと言ってないよね?」
「うん、大丈夫」
介抱されたのが恥ずかしいような、でも介抱してくれたのが美佳でよかったと思った。近々、何かお礼もしなければいけないし、そんな誘う口実ができたのがちょっと嬉しかった。
その一件があってから、会社のフロアで美佳のことが目に入る時間が格段に増えていった。意識して美佳のデスクの側を通ったりして、「俺はいったい何をしているんだ…」と、キャラになく不器用になっていた。
“この前のお礼にご馳走したいんだけど、今週末どうかな?”
“今週はちょっとバタバタしてて…。近いところだと来週の土曜かな”
そんなやりとりをLINEでして、来週の土曜に会う約束をした。今週の土曜はNGと言っていたけど、なぜなんだろう? まさかデートに行ったりするのか? 見慣れているけれど、外から見たら美佳はけっこうな美人だ。
そんなもやもやを抱えたり、デスクの側を通っているうちに、約束の土曜となった。
待ち合わせの時間ピッタリに美佳は現れた。いつもは格好いい系のセンスのよい出で立ちの美佳だけれど、この日は珍しく女の子らしい服装だった。ちょっと明子ちゃんが着ていた服装と似ているともいえる。
普通の男女にとってはよくあるデートだけれど、土曜19時からの同期へのディナーの誘いは、好きだと言っているようなものに思えて気恥ずかしい。
「おーっす」
かわいいと思ったのは隠していつも通り挨拶をする。
店は正統派フレンチ出身のシェフがひとりで切り盛りする奥渋谷のビストロだった。そこでゆっくりディナーを3時間ほど食べ、その後は奥渋谷から代々木公園方面へ腹ごなしに歩くことにした。
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